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2023/08/30

薩摩街道・豊前街道 Day1 その④


 
霊鷲寺の前で道は二手に分かれるので左方向へと進む。「近道踏切」という甘木鉄道の踏切を渡り、国道500号に当たる。この地点はここから国道500号に沿って東に向かう秋月街道との追分となっている。ここから国道脇の細い道に進むのが薩摩街道。松崎北入口の案内がある。


左手に松崎公園が見えてくる。公園の一部と道を挟んで反対側に古そうな石垣が積まれている。ここには松崎宿の北構口があった。構口(かまえぐち・かめぐち)は宿場の出入口に設けられた石垣と土塁のことで、筑前・肥後の宿場でよく見られる。隣接する形で番所小屋が設けられ、宿場への出入りの警備を行っていた。


宿場に入るとすぐに道がクランク状に折れ曲がる。この枡形と構口で宿場の防御力を高めていた。


枡形の脇には松崎宿歴史資料館がある。地主であった三原家の本家が先程の松崎公園にあり、その土蔵を資料館として転用している。かつて公園にあった三原家の屋敷は九州湯布院民芸村に移築されている。


街道沿いに石像の文化3年(1806年)の銘入りの恵比寿様が鎮座していた。松崎宿には上町・中町・下町にそれぞれ恵比寿像が祀られている。筑前・筑後・肥前・肥後あたりでは恵比寿信仰が盛んのようで、これ以降も街道沿いにで恵比寿像を見かけることになる。


松崎宿には江戸時代から昭和初期まで旅籠として利用された「油屋」がある。主屋である「油屋」と屋敷である「中油屋」からなり、主屋を一般客の宿泊に利用し、屋敷は身分の高い賓客が利用しており、脇本陣的な使い方をされていた。西郷隆盛が宿泊したという言い伝えもあるようだが、正式な証跡は残っていないという。

主屋は平成27年(2015年)から解体復元工事が行われ、訪問時は絶賛工事中でその姿を拝めなかったが、平成31年(2019年)には江戸時代当時の姿に復元され、松崎宿一番の見所となっている。


松崎宿が宿場として整備されたのは延宝6年(1678年)。それまで参勤交代のルートは宝満川西岸を通り横隈宿を経由していた(旧筑前街道・横隈街道)が、寛文8年(1668年)の松崎藩立藩などにより豊前街道や松崎の宿場町が整備されていった。松崎藩は後継者問題で貞享元年(1684年)に改易となったが、旧領地は幕府領となり、元禄10年(1697年)には久留米藩に還付されている。往時には茶屋本陣が設置されたり、旅籠が二十数件ならぶ宿場だった。


「桜馬場入口」の案内板があった。有馬豊範は街道からこの先の松崎城までの道の両脇に土堤を設け、そこに桜を植えた。大正時代までは桜の名所として知られ、現在でも約150本の桜が300mの並木として残っている。


松崎宿の本陣(御茶屋)跡は現在は一般住宅となっており、ここにも恵比寿像が鎮座している。参勤交代の際など大名が宿泊することもあれば、藩主が休息や宿泊に利用することもあっった。


福岡法務局三井出張所の脇に「ぴんころ地蔵尊」という比較的新しそうな地蔵が鎮座していた。健康で長生きして大往生する、いわゆる「ぴんぴんころり」を成就する地蔵ということであろう。


野田宇太郎の記念碑があった。この隣にある松崎保育園のある場所が野田宇太郎の生家があった場所だった。


松崎城跡の碑が草に埋もれていた。松崎藩を立藩した有馬豊範はそれまで横隈を拠点としていたが、寛文11年(1671年)に松崎に居城を設けた。貞享元年(1684年)に松崎藩が改易となると、松崎城も廃城となった。主郭の跡地には、大正3年(1914年)に松崎実業女学校が設置され、現在では福岡県立三井高等学校となっている。


1日目はここ松崎で終了。松崎周辺にはホテルなどが見当たらなかったので、思い切って博多まで戻って宿を取ることにした。

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