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2025/07/07

【歩き旅】北国街道 Day8 その②



往時は蛇行していた街道も、現在では快適な直線道路に姿を変えている。そして春日新田西のバス停がある変則十字路には「春日新田宿場跡」の説明板がある。このまま北上すれば直江津港だが、街道はここで90度折れ、日本海と適度な距離を取りながら東に進んでいくことになる。


この交差点はかつては丁字路で、街道はここで本陣にぶつかる形で折れ曲がっていた。慶長12年(1607年)に、この周辺の利便性を高めるため、それまでの中心地であった春日山城を廃止し、その代わりとして街道の北側に福島城が築城された。その際に春日山城周辺の都市機能を福島城周辺に移設してきたことで、春日新田が宿場としての必要機能を充実させることに繋がった。しかし、海や川に近いことから水害被害に悩まされ、築城から7年後の慶長19年(1614年)に高田城の築城に伴い、福島城は廃城となった。


交差点のすぐ脇に春日神社の標柱が建つ。神社への参道は線路で分断されているが、交差点を北上して踏切を渡れば参拝することができる。春日山城は春日神社にちなんで命名されており、この神社は福島城築城時に春日山の春日神社を分祀したものだという。


少し先に、「春日新田の馬市跡」の碑が建つ。春日新田が天領だった時代、馬の一大産地であった秋田藩の佐竹氏によって支配されていたことから馬市が盛んとなった。椎谷(現:柏崎市椎谷)、栃尾(現:長岡市栃尾)と並んで越後三大馬市の一つに数えられていた馬市であるが、第二次世界大戦に伴い昭和18年(1943年)にその幕をおろした。


馬市の碑の奥には祠があり、その裏手に馬頭観音碑と高浪忠太夫の墓が並ぶ。高波忠太夫はかつての名を又左衛門といい、馬市の創設に尽力した功績が認められて苗字帯刀が許されたという。


馬市の碑の隣の細道は覚真寺の参道となっている。第二次世界大戦の最中には海外兵が捕虜して日本に連れて来られることがあったが、直江津港のほど近くにも捕虜収容所があった。そこで収容されていたオーストラリア人が病死してしまい、遺骨を預かるところがなかなか見つからない中、当時の覚真寺住職・藤戸円理氏が申し出て、覚真寺本堂の一角で預かっていたという。


東に進む街道は、タバコ屋と酒屋の間で北に進路を変える。県営春日新田住宅の敷地には表忠碑が見えた。書は東郷平八郎によるものだという。その脇には「第二中学校跡」の碑。ここには昭和54年(1979年)まで、上越市立第二中学校があった。


しばらくして上越市スポーツ公園にぶつかるが、かつての街道筋は現在の公園の中央付近で再び東に進路を取っていた。紆余曲折する進路は、もしかしたら福島城城下町の名残りなのかもしれない。東に進む街道は直江津ゲートボールハウスの脇をかすめるが、この入口に本誓寺跡の説明板がある。本誓寺第十代超賢は、当時上杉謙信と対立していた一向宗徒をまとめ、謙信の上洛を助けたとしてこの場所に寺領が与えられたという。超賢は川中島の戦いや石山合戦でも活躍するようなパワー系僧侶だったようだ。本誓寺は高田城の築城に伴い、現在は高田城下の寺町3丁目に移設している。


県道259号に沿って進むと、民家の一角に奥州道の道標(左)と筆塚(右)が並んでいた。道標は「右 さいみち 左 おう志う道」と刻まれており、今から進んでいく北国街道奥州道と、地域村民が利用する在所道の分岐を表したものだという。隣の筆塚の方は特に由緒などわからなかった。


道標に導かれるまま奥州道を進むと保倉川にぶつかる。佐内橋で対岸へ渡る。


信越本線の黒井駅の脇を通る。かつては黒井駅のすぐ南側に頸城鉄道線の起点である新黒井駅があった。頸城鉄道線は新黒井駅から東の浦川原駅までの15kmを結んでいた軽便鉄道で、大正3年(1914年)から昭和46年(1971年)まで運行されていた。


駅周辺は工業地帯になってるが、それを抜けると民家が立ち並ぶエリアに差し掛かり、ここに黒井神社がある。創建は不明だが、社殿は昭和10年(1935年)に再建されたもの。またかつての保倉川は左内橋のあたりから黒井神社の裏手を北に日本海へ抜けていたという。


鳥居の脇には八千浦村道路元標が置かれている。「やちうら」ではなく「やちほ」で、昭和29年(1954年)に直江津市に合併されるまで存在した村である。周囲の漁村を束ねて新たな村を作る際、古事記の「八千矛神(=大己貴命)」が漁撈航海安全の守護神であることに目をつけ「ヤチホコ村」と命名しようとしたが、「矛」が戦争を意味して縁起がよろしくなかったり、語呂が悪かったりしたため、「矛」をやめて「浦(ほ)」にしたのだという。

黒井宿に差し掛かったところで昼休憩。「といちや」さんで日本海の味・海鮮丼を堪能した。

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