気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

©こけ
Powered by Blogger.

2014/01/17

2014年が開けたので、初詣に浅草寺でおみくじ。



あけましておめでとうございます。
今年も徒歩や自転車で行く先々のことを、たらたら調べてはつらつら書いていきます。

さて世の中は正月などつゆ知らず、平常運転で運行している今日この頃。
2014年一発目ということで、初詣の話なぞしてみようかと思うのです。

今年の初詣は定番中の定番、金龍山浅草寺に赴きました。

浅草寺で初詣といえば、忘れてはならない「おみくじ」。
特に浅草寺のおみくじは「凶」が多いことで有名です。

浅草寺の公式HPでも、おみくじに言及しています。
浅草寺|よくある質問 http://www.senso-ji.jp/faq/#6

浅草寺のおみくじは「観音百懺(かんのんひゃくせん)」という種類のもの。
比叡山延暦寺を復興したことで知られる「良源僧正(元三大師、慈恵大師)」が、おみくじを日本で普及した当時の内容をそのまま残しているとのことです。
六角形の1〜100の数字が書かれた棒が入った筒をガシャガシャとまわし、出てきた番号と同じ棚からくじを一枚取り出すという仕組みです。
多くの大手寺社が巫女さんなどに番号を告げてくじを出してもらう方式なので、なかなか味わい深いシステムかも知れません。

ところで、凶が出やすいことで知られる浅草寺のおみくじ、実際どのくらいの割合で凶が含まれているのでしょうか。
浅草寺のおみくじは、大吉、吉、半吉、小吉、末小吉、末吉、凶の7種類あります。
(運勢の良い順番については諸説あるようです。これはこれで興味深い。)

ちなみにかつては「大凶」も存在しており、おみくじ界でも悪名(?)を轟かせていたのですが、「引いたときの衝撃があまりにも大きい」ということで、大凶は少し前に廃止されたとのこと。

現在では、
大吉  17%
吉   35%
半吉  5%
小吉  4%
末小吉 3%
末吉  6%
凶   30%
の割合だという記事を見つけたので、私もWeb上であつめた情報を元に浅草寺・観音百懺の運勢を一覧にしてみました。
(こんなことしてバチが当たるかもしれないので、念のためこの下を反転すると表示されるようにしてみました。)

↓ここから↓
1大吉 2小吉 3凶 4吉 5凶 6末吉 7凶 8大吉 9大吉 10大吉
11大吉 12大吉 13大吉 14末吉 15凶 16吉 17凶 18吉 19末小吉 20吉
21吉 22吉 23吉 24凶 25吉 26吉 27吉 28凶 29吉 30半吉
31末吉 32吉 33吉 34吉 35吉 36末吉 37半吉 38半吉 39凶 40末小吉
41末吉 42吉 43吉 44吉 45吉 46凶 47吉 48小吉 49吉 50吉
51吉 52凶 53吉 54凶 55吉 56末小吉 57吉 58凶 59凶 60小吉
61半吉 62大吉 63凶 64凶 65末吉 66凶 67凶 68吉 69凶 70凶
71凶 72吉 73吉 74凶 75凶 76吉 77凶 78大吉 79吉 80大吉
81小吉 82凶 83凶 84凶 85大吉 86大吉 87大吉 88凶 89大吉 90大吉
91吉 92吉 93吉 94半吉 95吉 96大吉 97凶 98凶 99大吉 100凶
↑ここまで↑

なるほど。確かに凶が多い。

もちろん私は凶でした。安定のマジョリティー。

2014年も凶な感じで宜しくお願い致します。

2013/12/22

名所江戸百景:四つ木通用水引ふね -「足」が変わる町-



前回のエントリーで四つ木について取り上げたので、名所江戸百景から「四ツ木通用水引ふね」を紹介したい。

■作品概形

四ツ木通用水を「サッパコ」と呼ばれる船が行き来している様子を描いた一枚。
サッパコとは人力で引いて進む舟のことで、亀有村から篠原村(現在の四ツ木)までの区間で運行していた。
※四ツ木通用水、サッパコについては「小梅堤」でも記述しているので、そちらを参照していただきたい。

作品をよく見ると、奥の方に船着場が見て取れる。
筑波山が遠方に見えることから、篠原村側から亀有の船着場方面を臨んだ風景と考えられる。

この作品では広重が得意とする「風景を創造する」技法も満載である。


上の地図は1890年(明治23年)発行の東京市區改正全圖から引用している。
右側が北になっているので注意して見て頂きたいが、中央に「四ツ木村」・「篠原」の文字が確認できる。
地図の左上から右下にかけて四ツ木通用水こと曳舟川が流れており、四ツ木村の辺りで中居堀と分岐している様子がわかる。

一見すると、四ツ木から北東の区間で川幅が太くなっているように見えるが、目を凝らすと川の中央に「しきり」のようなものが確認できる。
実は中居堀と曳舟川はぴったりと寄り添うように平行して流れており、この流れは地図のさらに右方、亀戸まで続いているのである。

ここで疑問が浮かんでくる。
篠原村から亀戸方面を臨んだ風景を描こうとすると、普通は曳舟川と中居堀の2本の川が目に飛び込んでくるはずである。
しかし広重はあえて一本の流線に絞り、風景を描いている。
また、実際の河川の線形は極めて直線に近いものであるにもかかわらず、広重の絵には曲がりくねった流線が描かれている。

事実とは異なる風景ではあるが、あえて現実には存在しない風景を描くことで、川のダイナミックさを演出することに成功している。

■交通の移り変わり

時を遡ること西暦645年。
中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我氏を打ち倒し、日本の政治制度を大きく変えることとなった「大化の改新」が始まった。
(※最近の歴史の授業では646年になっていたり、そもそも大化の改新なんてなかったという説もあるようであるが。。。)
改革の主要なテーマである「律令制」とそれに伴う「国郡制度」により、日本全国に「国」と「郡」が配置された。
このとき、地方の支配をより強靭にし、各地の情報伝達を円滑するために設置された幹線道路の一つが「古代東海道」である。
(古代東海道については別エントリ「立石」で紹介しているので、そちらも参考にして頂きたい。)


上の画像は大正8年発行の「1/25000 東京首部」から引用したものである。
四ツ木の集落が東西にまっすぐ伸びる古代東海道沿いに形成されているのがわかる。

南西の空白地帯は、大正2年から始まった荒川放水路の工事によるもので、まだ水が流れていないため一部の道路などが残されている状態である。

また、大正元年に開業した京成電気軌道(現在の京成鉄道)の線路が綾瀬川を渡って古代東海道にそって伸びているのがわかる。
さらに古代東海道に差し掛かるカーブの箇所に四ツ木駅が設置されている。
四ツ木駅大正元年に設置されたが、荒川放水路の開削に伴って大正12年に移動され、現在の京成押上線四ツ木駅の位置に落ち着いている。

大正後期になるとモータリゼーションの波が押し寄せ、主要な幹線道路計画が急ピッチで進められたが、荒川放水路の開発や戦後の混乱などで、東京の中心側・墨田区と四ツ木間の道路による繋がりが寸断されていた時期もあった。

大正11年には、四ツ木橋が現在の木下橋と京成押上線荒川架橋の間あたりに架けられたが、幹線道路と直接結ばれていなかった。その後、現在の国道6号線にあたる部分の開発が進み、昭和27年に永久橋(現:四ツ木橋)が竣工し、四ツ木を通過する主要道が整備されることとなった。また、昭和48年には新々四ツ木橋(現:新四ツ木橋)が国道6号線に平行する形で整備され、渋滞の緩和に一役買っている。

かつては「古代東海道」の経路として、江戸時代には曳舟による水運観光の拠点として、近代には鉄道や車による交通の中継地として、その役割を時代によって面々と変化させているこの街には、日本を支える「縁の下の力持ち」的な哀愁を感じさせられる次第である。


2013/12/11

四つ木でキャプテン翼に会ってきた


今年の春、葛飾区四つ木にキャプテン翼の銅像が建てられた。

なんでもキャプテン翼の作者・高橋陽一氏が生まれ育ったのが四つ木なのだという。
しかも未だに四つ木在住とのこと。

また、キャプテン翼に登場するキャラクターたちが幼少期を過ごした「南葛小」・「南葛中」は「南葛飾」に由来しているようである。

そんな郷土愛豊かな高橋陽一氏が、念願かなって地元に銅像を残す機会を得たのである。

目的地へは四ツ木駅の北口を出て、北口商店街「まいろーど四ツ木」を道なりに進む。
コンビニを左手に曲がると「西光寺」の門が見える。
この西光寺も非常に興味深い寺院なので、機会があれば取り上げたいが、今回はその隣にある開けた空間にフォーカスをあてる。

葛飾区四つ木1丁目22、その名も「四つ木つばさ公園」の敷地内。

最近まで保育園があった土地を、災害避難時に利用できる公園として整備したそうだ。

肝心の翼くんはこんな感じ。


笑顔が眩しい。銅像だけど。
そしてお友達のボール君もちゃっかりご一緒。

今後は他のキャラクターの銅像も設置していく方針だとか。
亀有の両さんと共に葛飾区を盛り上げてほしいものです。


2013/10/20

帝釈道 〜帝釈天で産湯を浸かりにいこう〜


前回のエントリー(http://rekisanpota.blogspot.com/2013/09/blog-post.html)で立石をぶらぶらしていた私だが、立石様の辺りを徘徊していたとき、中川沿いの道端にぽつりと佇む一基の道標に出会った。

正面には大きく「帝釋天王」と彫られている。
横側には「文政三(=1820年)庚辰歳四月」の文字が見て取れる。

このあたりで「帝釋天(たいしゃくてん)」といえば、言わずもがな、「柴又帝釈天」こと「題経寺」のことを指す。

つまりここから帝釈天へ通じる道があったというわけである。

そこで一体どのようなルートを辿って人々は帝釈天へ向かっていたのかを調査してみた。
参考にしたのは以下のような媒体。

・東京スカイツリー(R)ビューマップ 葛飾今昔まちあるき
http://www.katsushika-kanko.com/katsumaru/news/r/
神さま仏さま探訪記ーご利益をたどれば日本人が見える(著:小松美保子)



江戸から帝釈天へ向かうルートは主に2つあったとされる。

一つは、水戸街道を利用して千住→新宿(にいじゅく)、新宿で水戸街道を離れ国分道を利用して帝釈天へ向かう方法(緑のライン)である。

もう一つは、浅草から吾妻橋を渡り、曳舟を抜けて四つ木の渡しを越え、(おそらく立石道を通って)立石、そこからは諏訪野の渡しもしくは曲金の渡しを利用して中川を渡り、帝釈天へと至るルート(オレンジのライン)である。

ちなみに、立石からはより中川沿いを行く「帝釈枝道(青のライン)」も整備されていたようだ。帝釈枝道は諏訪野の渡し付近で帝釈道と合流しており、そこからは帝釈道と共通のルートを辿るようである。

今回発見した道標はオレンジのラインの起点にあたる道標で、立石道との追分地点に置かれたものと推定される。

この近辺には、他にも帝釈道の名残を示すものがいくつか点在するという話なので、後日追取材をしてきた。

□福森稲荷神社内の道標


オレンジのラインと青のラインの合流した辺りに、福森稲荷神社が鎮座している。
この神社は寛政8年(1796年)に創建されたとされているが、その敷地内に「帝釋天王通」と彫られた道標が置かれている。
この道標自体は安政3年(1856年)に建立されたもので、当時この場所付近にあった「諏訪野の渡し」を利用する参拝客に向けたものではないかと考えられる。

□新宿の道標


緑のラインこと「国分道」の入り口に、「帝釋道」と記された道標が立っている。
この道標は、明治30年(1897年)に建立されたもので、指文字が国分道(写真のさらにん右手に伸びる)を指しているのが特徴的である。
ちなみに写真右側に見切れているのは旧水戸街道である。

帝釈詣は江戸期から明治、そして現在までも人気のアクティビティとなっている。
時代の変化に伴って、交通も徒歩から人車・電車・車と変化してく様が、この近辺では見られるのが面白いところであったりする。


2013/09/16

立石様とみちしるべ〜古代東海道を辿る〜



「立石」と聞いて、最近では「立石バーガー」を想像する人が(巷では)多いらしい。
今回はそんな葛飾区を代表する下町「立石」に赴いた。

そもそも私が立石に興味を持ったのは、「古代東海道」の存在からだった。
東海道の説明はそれだけで何エントリーも費やせる自信があるので、ここでは概要だけ説明する(大抵のことはWikipediaさんが詳しく知っている)。

■古代東海道と立石


東海道と聞けば、東海道新幹線あるいは東海道線を思い浮かべる人が多いかもしれない。
この記事を見るくらい物好きな方のことだから、江戸時代に徳川家康が江戸ー京都間で整備した道である、いわゆる旧東海道を想像する人もいるだろう。
しかし、今回取り上げる「古代東海道」は、それよりもはるか古く、奈良・平安時代に整備された道である。当時の道の役割は、国府(地方を司る役所)間の情報伝達を円滑に進めるために整備されたものである。現在の埼玉・東京・神奈川の一部に及ぶエリアは武蔵国と呼ばれ、その中心・武蔵国府は現在の府中辺りに置かれた。また千葉県北部・東京の東側の一部等は下総国と呼ばれ、その中心・下総国府は現在の市川市・国府台辺りに存在していたとされる。
この国府間には中継地となる「駅」がいくつか設けられた。立石は武蔵国豊島駅(場所については諸説あり)と下総国井上(いかみ)駅(現在の市川市辺りとされる)の中間地点に当たる。

立石付近の古代東海道と推定される道筋をトレースしたものを地図に示すと、なんとも綺麗に東西に伸びていることがわかる。国府と国府、駅と駅を効率よく結ぶために、その間の道も直線的に作られたのではないかと考えられている。
古代を代表する主要道沿いということもあり、立石は古くから栄えていた土地のようである。




■「立石」の由来と東海道

「立石」という地名から、「なんかこの辺りにでかい石でも立っているんだろう」と想像するのは容易である。調べてみると「立石様」なるものが存在し、これが立石の地名の由来であるという。立石様とはどんな巨石なんだろうかと胸を弾ませながら現地に向かうと、私の目の前に飛び込んできたのは…。


この真ん中の岩が土から露出しているようなものが立石様だ!

いやいやこの岩全然「立って」いないやないかとツッコミを入れたくなるところであるが、江戸名所図会 第19巻 立石村立石 には、男性のひざ上くらいの高さの岩が描かれており、かつてはより大きな岩として鎮座していたらしいことがわかる。

説明板には次のようなことが書かれていた。

 立石様は、「立石」地名の起こりのともなった石です。岩質は、凝灰岩で表面に貝の生痕を残しているのが特徴です。この石は、房総半島の鋸山の海岸部に産出するもので、本来は古墳時代後期に古墳石室の石材として用いるために運び込まれたものと考えられます。その後、奈良時代以降に官道(古代東海道)の整備の際に目印として転用されたものと推定されます。江戸時代には、「活蘇石」とか「根有り石」と呼ばれ、地下の状況がうかがいしれない大変に不思議な奇石として人々に崇められ、現在に至っています。  
この「鋸山」より産出された石は「房州石」とされている。この房州石は、関東周辺の古墳群の石室の材料として多く使用されている形跡がある。また、近年の調査で立石様の地下には空洞があることが判明しており、立石様自体が古墳の一部なのではないかという説も浮上している。

■「立石」は立石様のことではない?


1884年に記された新編武蔵風土記稿 葛飾郡之四には次のような記載がある。
熊野社 村の鎮守なり。神体は石剣にして長二尺余。村名もこれより起これり。
つまり、熊野社こと「立石熊野神社」のご神体である石剣が立石の由来だというわけである。


立石熊野神社は正式名称を「五方山熊野神社」といい、境内を上からみると五角形になっているのが特徴である。これは陰陽道の「五行説」に由来するもので、陰陽師でお馴染みの安倍晴明がこの社の開基とされている。
熊野神社からも立石様と同様の古墳が見つかっている。この神社のご神体である「石剣」も縄文時代くらいのものとされており、同時期に見つかったものかもしれない。

とはいえ、本当の「立石」はどちらなのか。

立石様にはまだまだ謎が多いようだ。

2013/08/19

桜稲荷神社 〜蔵前橋通りさんぽ②〜



蔵前橋通りを移動中、首都高のほど近くに狭小神社を発見した。
近づいてみると幟も立っており、しっかりと管理がされているような雰囲気。
鳥居には「櫻稲荷神社」の文字が刻まれていた。

中を除くと、狭い路地の奥に本殿が鎮座(?)していた。


昭和59年に記された桜稲荷神社縁起の概要は以下の様な感じ。

大正12年の東京大震災以来、藤堂家にあった稲荷神社が荒廃状態にあった。
これを案じた岡本悟一氏が世話人となり、昭和3年に桜稲荷神社としてこの地に奉じた。
その後太平洋戦争によって一度消失するも有志によって再建され、概ね今の姿になる。
祀られているのは伏見稲荷大明神。(要約) 
とのことである。

ここで出てくる「藤堂家」は、おそらく江戸期にこの地に屋敷を構えていた「藤堂佐渡守」の系譜を指していると考えられる。
藤堂佐渡守は、津藩から別れた久居藩を治め、五万三千石の石高であった。

道を挟んで南側には津藩の藤堂和泉守の上屋敷が構えられており、こちらは現在の「神田和泉町」の由来ともなっている。
当時はこちらのほうがこの地で優位であったと考えられるので、もしかしたら上記の藤堂家は藤堂和泉守の家系かもしれない。

私が写真を撮っている間にもスーツを着たおじさんが拝んでいった。

寺社は地元に根付いてこそのものであることを、改めて感じさせられた次第である。


より大きな地図で 蔵前橋通りさんぽ を表示

2013/07/11

揖取稲荷神社 〜蔵前橋通りさんぽ①〜


蔵前橋通りを歩いたり自転車で通行したりすることが多いので、通り沿いの名所?みたいなものを紹介するシリーズができそうだと思い、やってみる。

蔵前橋から西へ向かっていると、「揖取稲荷神社→」という看板が目に入る。
「いぼとりいなりじんじゃ」とは皮膚系の病気に効力を持ってるんじゃないかと思い、矢印の向きを覗きこんでみると、薄暗い道の影に隠れるようにこじんまりとした神社が佇んでいる。
しかも「いぼとり」じゃなくて「かじとり」とは!
※そもそも病気のイボは「疣」と書きますね。。。

この神社の謂れは以下のようなものである。
慶長年間江戸幕府米倉造営用の石を遠く肥後熊本より運搬の途中、遠州灘の沖に於て屡々遭難あったが或る時稲荷の神の示現を得てより後は航海安全を得る事が出来た。その神徳奉賽の為め稲荷の社を浅草御蔵の中に創建、名づけて揖取稲荷と称へ爾来今日に至って居る。鎮座以来既に三百七十年氏神榊者の摂社として祭事怠る事無く奉仕。商売繁昌、火防の神として広く衆庶の尊信を集めている。(説明板より引用)
この神社の位置には、江戸幕府最大の米倉「浅草御蔵」があった。
敷地面積が東京ドーム2個分にも及ぶこの米倉の造営には、多くの資源が必要だったに違いない。
土地の埋め立てに必要な土は、近くの鳥越神社の丘などから調達したようであるが、さすがに石は確保できなかったため、遠方から取り寄せたのであろう。
とはいえ、遠州灘といえば波荒れ狂う七十五里の難所である。多くの船が水難に遭ったことは容易に想像できよう。
そんな中、お稲荷さまに救いを求めるとあら不思議、無事に江戸にたどり着くことができるではないか。ありがたやー。

そんなこんなで元和6年(1620年)、ついに浅草御蔵が完成するのである。

ありがとうお稲荷様、というわけで御蔵の敷地内に「かじを取る」神社を奉ることにしたという運びである。


ところで船の「かじ」は普通木偏の「楫」という字を当てるが、何故手偏なのだろうか。
そもそも手偏の「揖」は、古代中国や神道において「礼(おじぎ)」という意味があるようである。
(参考:http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/223667/m0u/%E6%8F%96/

調べてみると、「揖取神社」は大阪にも存在しており、こちらも「かじとり」神社だという。
おそらく「楫」に神道に由来する字である「揖」を当てて、霊験あらたかな感じを醸し出そうという流れなのではないかな。

※漢字は違うが、「梶」という字についても「手偏の梶」が存在するようである。
家系の本家と分家を区別するために用いられたという例があるらしい。

(参考:https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&ldtl=1&dtltbs=1&mcmd=25&st=update&asc=desc&state=2200000033&id=1000076693

こんなこじんまりとした神社だが、一つ見所がある。
それは、神社の脇にある貝殻アート。

誰が制作しているかまでは解らなかったが、定期的に絵柄が変わるようである。
(今回の絵柄は、ちょうど富士山が世界遺産に登録されたからだろうか。)
時期や季節を表現した内容が多く、この神社の風物詩となっているようで。

小さな神社だからこそ、町内に根付いた信仰を集めているのではないだろうか。



より大きな地図で 蔵前橋通りさんぽ を表示