気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

©こけ
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2014/10/15

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day1の① 〜1番はまだですか?〜



今回の巡礼は、江戸から秩父に向かう古道を辿ることにした。
さすがに江戸からスタートするのはしんどいので、秩父古道マップにある「小川町」から歩き始めるコースを利用した。
スタート地点である埼玉県秩父郡東秩父村の「落合橋」へは、小川町駅からバスを使って移動した。そこで降り立つと、冒頭の写真のような山間の集落が広がっている。

落合橋の南、県道11号線の道端には馬頭尊碑が鎮座していた(おそらく安政の馬頭尊。「屋漏の家」と書かれた看板の脇に地味に佇んでいるので見つけにくいかも)。
ここから槻川に沿って上流に歩き始めていく。



旧道は、一度槻川を南に渡って崖の脇の道をゆく。
崖に埋め込まれるように、いくつかの石碑が置かれていた。崖はいまにも崩れそうで、補強工事の真っ最中といった感じだった。


県道に沿って歩いていくと、公衆トイレと観光地図があった。ここから二本木峠・愛宕山に登るコースに入ることができるが、今回は別の道となる。




宝暦8年の六十六部塔と、六地蔵。







皆谷地蔵堂。
この脇に「右志ゆんれい道(右巡礼道)」の道標があるとのことだったが、写真を撮り忘れる…。ともかく江戸から来て最初の巡礼道の案内である。
また、橋場バス停留所もこちらなので、ここから歩き始めるのも良いかもしれない。

道標に従って右に折れ、結構な急坂を登る。
県道361号線をがんがん上る。
眼前が開けてくると、右側に上る山道に「皇鈴山CPへ 外秩父七峰縦走ハイキングコース」と書かれた案内板と、馬頭尊。
ここからしばし山道を行きます。

一度舗装路に合流し、再び山道へ。
思ったより道が荒れている。これまたそこそこ急な登りが続いて、息も切れてきた。
そんな折、半壊の地蔵のようなものに出会う。文政5年の馬頭観音で、「粥新田観音」と呼ばれるものらしい。


やっとこさ「粥新田峠」に到着。
この辺りは様々なハイキングコースの分岐点となっているので、人通りも(それなりに)多い。
車も何台か止まっており、山歩きの起点となっているようであった。

牧場の脇を通る。柵がもろいので、近づきすぎたら襲われそう…。怖かった。
がんがん下っていきます。
途中砂利道もあるので、思っているよりも疲れる。



巡礼道の道標の脇から、再度山道に入って下っていく。
ここからの道は、ぬかるんでいて滑りやすく、整備もあまりされていないので歩きにくい。
実際、水たまりに足をつっこんでしまい、1番に辿り着く前に満身創痍。




山を下り終えると、皆野町三沢の集落に出る。
「寺山子安観音」が迎えてくれた。





県道82号線を横断し、県道の一本西側の道が巡礼道のようだ。
この大きな石は、川越道と熊谷道の分岐に立てられた「広町の道標」らしい。きっと文字が刻まれていたのだろうが、目を凝らしても確認できなかった。


曽根坂一里塚。中央に立つ阿弥陀塔には、「みキハ大ミや(右は大宮(=秩父神社))」「ひだり志まんぶ(左四萬部)」と刻まれている。やっと1つ目の目的地である一番札所「四萬部寺」の名前が出てきた!
また、この塔は「心求・はま夫婦」によって作られたという。この人物は道中度々出てくる重要人物なので覚えておこう。




札所一番 四萬部寺に到着!!


 小坊主がお出迎えしてくれました。


今回のルートは、秩父観光ナビのちちぶおもてなしマップ「江戸巡礼古道編」の、「秩父札所に入るみち 東秩父〜札所1番」をトレースした。

この日はさらに先まで足を伸ばしたが、とりあえずここまで。

2014/09/24

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day0 〜思い立ったが吉日編〜



先日から秩父札所巡礼を行っている。
というのも、今年は12年に一度の午年総開帳の年なのだ。
(参考:秩父三十四観音霊場|秩父札所連合会公式サイト

札所巡礼といえば、有名なのは四国八十八カ所巡りだろうか。その秩父版は計三十四カ所の札所をめぐる巡礼となる。
近畿地方を中心とした「西国三十三カ所」、関東地方を中心とした「坂東三十三カ所」と合わせて、「日本百観音」の一角を担っている。

埼玉県の秩父地方を中心に、秩父市・横瀬町・皆野町・小鹿野町を巡る100km超の道のりとなる。札所間の間隔が大きい所では巡礼者の多くは車やバス、自転車なんかを使って移動することが多いが、私は発見してしまったのである。
「巡礼古道」なる古くからの道があることを。
(参考:江戸巡礼古道-散策・ハイキング-秩父観光なび-

普通の人がやらないことをやる。
そこに美学を感じてしまった私は、そそくさと準備を始めた。

今年いっぱいをかけて、全札所を巡礼古道を使って徒歩でめぐろう!まだ3ヶ月ちょっとある!と思い立ったのも束の間、午年総開帳は「11月18日」までと書いてあるではないか!

果たしてこのシリーズは、無事完結することができるのだろうか…。

世界の平和を祈願するため、私は秩父へと足を運ぶのであった。

2014/08/27

水戸街道のルート地図を作成してみた


※2018/08/28
水戸街道の歩き旅記事書き始めました。
http://rekisanpota.blogspot.com/2018/08/blog-post_28.html


先日、品川にある「街道文庫」に赴いた。
(街道文庫は場所を点々としており、今年の7月に訪れたときには、品川区北品川2-6-12 ハイツ品川101が住所だったように思う。)

目的は旧水戸街道のルートがわかるような資料探し。
水戸街道は片道100km程度と程よい距離であるし、ほとんどが平地であるためツーリングに向いていると考えたためだ。

店主一人、街道や地理関連の本が所狭しと並ぶ中で、黙々と地図とにらめっこしている。
水戸街道のできるだけ詳細な地図が1冊にまとまっているものはないかと訪ねたところ、まず挙ったのが、山本鉱太郎著「旧水戸街道繁盛記」であった。
(参考:Amazon.co.jp: 新編 旧水戸街道繁盛記: 山本 鉱太郎: 本

私もこの本の存在は知っていたが、店主曰く、読み物的要素が強く、街歩きの地図としてはやや古いという。
次いで提案されたのが、松戸市立博物館の企画展「水戸道中 宿場と旅人」の図録であった。
(参考:CiNii 図書 - 水戸道中宿場と旅人 : 企画展

この冊子には付録として50000分の1の地図上にルートがトレースしてあるものが付いている。見せてもらうと、なかなか良さそうな雰囲気である。
元々水戸街道は江戸から水戸まで直線的なルートを採っているので、極端に折れ曲がったり道が不明瞭な箇所は少ない。この地図があれば旧街道を正確に辿ることが出来るのではないか。

とはいえ、平成10年の企画展であり、使用している地図もそれなりの時代のものであろう。本当に旧街道をなぞることができるかどうか不安になってきた。

そこで、現在の地図上にこの冊子の付録を元に、水戸街道の道筋をトレースしてみた。



意外にイケた。

今後はこの地図をベースに、水戸街道のことも調べていこうかと思う。

2014/08/22

名所江戸百景:猿わか町夜の景 -芝居町から下町へ-



満月の夜に自分の影が伸びるのを最後に見たのはいつだろうか。思い返してみると、かつてそのような経験をしたこと自体無いかも知れない。
「猿わか町夜の景」は道行く人々のはっきりと地面に反射している様が描かれている。こんなにも明瞭に影が描かれるのは、満月の夜だからという理由だけではないだろう。道の両側から光がこぼれてくるのだ。

猿若町のあけぼの

1811年(文化8年)の「文化江戸図」より、浅草寺北東のエリアを抜粋した。
注目して欲しいのは、中央下側にある「●小出シナノ」の文字である。
これは「小出信濃守の下屋敷」を表す。
年代的に小出信濃守=小出英筠(こいでふさたけ。園部藩主。就任期間:1775年(安永4年)〜1821年(文政4年))を指すのであろう。
この下屋敷がある場所をよく覚えておいて欲しい。


そしてこれが1859年(安政6年)「安政江戸図」より同様の場所を抜粋したものである。
小出信濃守の下屋敷だったあたりを見てみると、なにやら2×3のスペースに区切られた土地が出現している。
何を隠そう、これが「猿若町」である。

猿若町が成立したのは1842年(天保13年)。
丁度その頃は、水野忠邦が天保の改革を押し進めていた時期であった。

天保の改革は倹約令を敷いて幕府の財政を立て直そうというものであった。
歌舞伎や芝居の類いは町人の贅沢と見なされたため、幕府から様々な圧力をかけられていた。
そんな最中、1841年(天保12年)、堺町(現:人形町辺り)で歌舞伎を興行していた「中村座」が失火し、全焼。古浄瑠璃の薩摩座などの芝居小屋をも巻き込んだ。この火事は堺町の隣、葦屋町まで広がり、歌舞伎の市村座、人形劇の結城座も被災した。

この火事により、罹災した芝居小屋は同じ場所に再建を試みるが、幕府から禁止命令が出てしまう。幕府としては、これを期に町人の贅沢の一つである芝居鑑賞を制限すべく、芝居小屋を城下から一掃することを考えたのだ。
そこで人形町よりも郊外の浅草聖天町にあった小出信濃守の下屋敷を収公し、芝居小屋の移転を命じた。

この江戸における新たな芝居小屋の拠点は、江戸歌舞伎の創始者であり、中村座の創始者でもある猿若勘三郎(初代中村勘三郎)から名前をとって「猿若町」として成立した。

賑わう猿若町

猿若町が成立した翌年の1843年(天保14年)、水野忠邦が老中を罷免されると、猿若町は盛り上がりを見せ始める。
当時猿若町に軒を連ねていたのは、以下の小屋である。

中村座:
江戸歌舞伎の創始である猿若座が元となった座。
中村勘三郎でおなじみの「平成中村座」の前身となる。

市村座:
京で活動していた村山又三郎が江戸で村山座を興行。その後買収され市村座となる。

森田座(守田座):
木挽町から移転。資金難であることが多く、控櫓(代興権を持つ座)である河原崎座が代興することも多くあった。
歌舞伎公演でよく見る「黒ー柿色ー萌葱」の定式幕は、守田座が発祥。

この中村座、市村座、守田座は、江戸町奉行所により興行が認められた芝居小屋であり「江戸三座」や「猿若三座」と呼ばれた。

また、古浄瑠璃の薩摩座、人形劇の結城座も猿若町で興行を行っていた。

そして現在

「猿わか町夜の景」をもう一度みてみよう。
画面右サイドには手前から「森田座」・「市村座」・「中村座」が並んでいる。
芝居小屋であることを示す「櫓」が各座に掲げられている。

一大芝居町として賑わった猿若町であるが、明治初頭の政府から移転命令により、小屋は次々と町を離れていった。1892年(明治25年)に市村座が離れたのを最後に、猿若町の芝居町としての役目を終えた。

猿若町自体は、明治以降「浅草猿若町」と名前を変えたが、1966年(昭和41年)の住居表示制度により、「浅草」や「花川戸」にまとめられた。

現在の猿若町は下町風情がわずかに残る住宅街といったところだろうか。浅草寺周辺からは程よく離れているため、観光客の姿は皆無といってよい。

猿若町のメインストリート上を中心に左のような旧町名を示した看板が立っている。町名の下には小さいながら、その場所にあった芝居小屋の説明が記されてる。
市村座跡地には「江戸猿若町市村座跡」と彫られた碑が立てられていた。
少し前までは守田座跡地にも同様の碑があった。
しかし石碑を管理していたであろう企業(株式会社櫛原)が、2013年2月に倒産。その後石碑は会社の作業場もろとも消失し、現在では駐車場と化している。

(参考:不景気.com | 東京の皮革類卸「櫛原」が破産開始決定受け倒産


そんな現在の猿若町だが、年に一度かつての賑わいを取り戻す瞬間がある。
毎年5月に行われる浅草神社の例大祭、「三社祭」である。
氏子四十四町会の一つ「猿若」として、旧猿若町が一丸となって神輿を担ぐのである。

そんな三社祭の日に写真を撮ってみた。
普段は人気のない猿若メインストリートに人が集まってきた。これから神輿を担ぐのであろうヤン衆共が、鉢巻きを受け取りつつ、久々に集まった顔なじみと挨拶を交わす。

町は少しずつ変わっていき、そこに属す人も付き合い方も少しずつ変わっているはずだが、なぜか下町風情は不変なもののような気がしてならない。






2014/06/13

牛田と関屋は近くて遠い -東武と京成の殴り合い-


墨田区を根城とする私にとって、東武伊勢崎線(とうきょうスカイツリーライン)は主要な交通手段の一つである。
とはいえ、伊勢崎線のみを利用して移動するとなると、目的地は北千住くらいに限られてしまう。そんなとき地味に役に立つのが、北千住の一つ手前「牛田駅」である。
牛田駅に何かランドマークがあるという訳ではない。強いて言うなら「京成関屋駅」というランドマークがあるくらいである。そしてこの関屋駅と牛田駅が徒歩1分で乗り換え可能という好立地に位置しているのである。
京成本線を利用すれば、西に向かえば日暮里・上野の山の手東サイドに出れるし、東の市川・船橋といった千葉の主要エリアに向かう際にも便利である。

先日、牛田駅を利用した際に関屋駅との乗り換えが快適すぎて、ふと疑問に思ったのである。なぜこんなにも近接した場所に2つの駅が設置されたのだろうかと。そして、何故異なる駅名を冠しているのかと。

どうやらかつての東武vs京成の鉄道操業権をめぐった争いの名残のようだ。

東京・私鉄ブームの先駆け

1897年(明治30年)に創業した東武鉄道の最初の路線として、東武伊勢崎線は1899年(明治32年)に北千住−久喜間を開業した。創業時の路線計画では、東京市本所区から下千住(現:北千住)を経由し栃木県足利市までを結ぶ区間を想定していた。
もちろん全路線を一気に敷設という訳にはいかないので、徐々に路線を拡大していくこととなる。
1902年(明治35年)には、吾妻橋(現とうきょうスカイツリー駅)−北千住間が開通し、当初予定していた本所を起点とした路線が実現した。

一方その頃、成田山新勝寺への参拝客の鉄道輸送化を目指し、東京市本所区押上から千葉県印旛郡成田町までの区間を計画した京成電気軌道株式会社が1909年(明治42年)に設立された。1912年(明治45年)には押上−市川(現江戸川駅付近)と曲金(現高砂)−柴又間を開業した。

それぞれ本所を起点に東武鉄道は日光方面を、京成電気軌道は成田方面を、参拝客輸送を柱に延伸していく。


上図は1919年「東京首部 二万五千分之一地形図 東京近傍7号」から現牛田駅・京成関屋駅付近を臨んだものである。現在伊勢崎線は、北千住−牛田−堀切−鐘ヶ淵−…と駅が設置されているが、当時は牛田駅・堀切駅は存在しなかった。そしてこの地に京成の手は及んでいなかった。

浅草をめぐる攻防

東武鉄道の東京側ターミナル駅は、1910年に駅名を業平橋から改称し、浅草駅となった。浅草駅とは言うものの、浅草の中心地である雷門は隅田川を挟んで対岸に位置し、距離も多くあった。東京の中心部への乗り入れを果たしたい東武鉄道は、どうにか浅草の中心地、あわよくば上野まで延伸しようと計画を立て、路線計画を申請していた。
1924年(大正13年)には、浅草雷門駅(現浅草駅)までの路線延伸の認可が降り、隅田川を越える路線敷設に着工した。ところが工事の進捗は順調とは言えなかった。やはり隅田川という大物を越えるとなると一筋縄ではいかない。さらに浅草雷門駅の設計に変更があり、工期は長期化していくこととなる。

一方その頃、京成電気鉄道は焦っていた。
京成の東京側ターミナルは、当時の浅草駅からほど近い押上駅であった。とはいえ、都心へは市電乗り換えが必須という不便さ故、京成もまた浅草・上野方面への延伸を申請していた。
6度目の出願の際に発覚したのは、京成の出願を有利に進めるために、16万円(現在価値で約3,000万円)が東京市議会や衆議院などに渡っていたということであった。
1928年(昭和3年)、この「京成電車疑獄事件」の発覚により、社会的批判を受けた京成は浅草への乗り入れを断念することとなった。

都心乗り入れにはまだまだドラマが

京成が事件を起すのと時を同じくして、1928年(昭和3年)、「筑波高速度電気鉄道」が日暮里から流山を経由し筑波山まで至る免許を取得した。実はこの会社、免許を取得したものの実際に施行する予算を持ち合わせておらず、免許の売却により利益を得ることを目的としたものであった。
どの会社に売却を持ちかけようかと考えたとき、すぐさま東武・京成の名が浮上し、実際に話が持ちかけられた。しかし、東武はこの話をあまり旨味がないとし、保留状態にした。一方、京成にとって都心進出の足がけにもってこいの話であるが、当時京成が所持していた路線との兼ね合いが問題になった。


上図は1931年(昭和6年)発行の「最新番地入東京郊外地圖」より、上野・日暮里と路線の位置関係がわかる部分を臨んだものである。東武・京成は赤線で示され、浅草駅から伸びる東武と押上駅から伸びる京成が、隅田川東岸で凌ぎを削りあっている様が見て取れる。
京成の都心延伸の基点の一つである押上からの延伸は、先の事件によって実現が難しくなっている。二つ目の基点が1928年(昭和3年)に向島から分岐した白鬚線である。向島から白鬚に伸びる路線をそのまま北西にのばしていくと、新たな赤線の軌道に接続されるのがわかる。三輪を起点としたこの路線は「王子電気軌道」である。

先の事件により浅草ルートを断たれた京成は、王子電気軌道との直通により都心乗り入れを果たそうとしていたのである。しかし、白鬚まで支線を伸ばしたものの、接続したところで実質的な都心には直接乗り入れ出来ないため、計画の是非が問われていた。

筑波高速度電気鉄道は、路線の利便性を考慮し、最終的に停車駅を、上野−動物園前−日暮里−三河島−千住−西新井−八幡−…と変更し、最終決定とした。何とかこの路線を手に入れたい京成であったが、現行の京成の路線から離れているのが気にかかった。
そこで京成は、立石−高砂間に新駅を設け、この新駅と千住間を支線とするルートを考案。この支線の建設を条件に、京成は筑波高速度電気鉄道を吸収合併を打診し、実現することとなった。

都心乗り入れのため、まず日暮里と新駅である青砥駅を結ぶ路線の開通を急ピッチで進めていった。ほとんどの工事は筑波高速度電気鉄道名義で行われ、新線開通の1年前、1930年(昭和5年)に京成が吸収合併を果たした。

東武が免許権の取得にあまり積極的に動かなかったのは、当時の私鉄のパワーバランス的に合併先は東武以外にないだろうと考えていたためと言われている。後々筑波高速度電気鉄道を買収する画策だった東武は、京成の合併にひどく激昂したようだ。

東武鉄道は1931年(昭和6年)5月25日に、業平橋−浅草雷門間を開通させる。
しかし、遅れることわずか半年足らず、京成は同年12月19日に青砥−日暮里間を開通させるのである。このとき設置された駅の一つが「関屋駅」である。

左図は1934年(昭和9年)発行「新興大東京市制全圖」。京成関屋駅が東武伊勢崎線の堀切−中千住間のなんとも丁度いい位置に座している。堀切・中千住駅にプレッシャーを効かせる絶好の位置である。
千住町大字関屋町と大字曙町の中間の位置にあることと、かつてこの地が「関屋の里」として知られる景勝地であったことが駅名の由来とされる。


そして左図は1939年(昭和14年)発行「大東京新地圖索引式ハンディ版」からほぼ同じ場所を見たものである。
関屋駅の設置の翌年9月1日、東武伊勢崎線「牛田駅」が開業した。
かつて江戸期に牛田村があった地であり、その名残が千住町字牛田として残されていたところを駅名に採用したのであろう。
これまた関屋へのプレッシャーが尋常でない。名称をあえて異なるものにしたのも、明確な差別化とライバル心に由来するといってもいいだろう。

時代の流れとともに私鉄競争も冷えてきた。東武・京成もJRには敵わない。同じエリアを走る私鉄同士、協調姿勢を採らなくてはやっていけなくなってきた。
私鉄バトルの象徴であった牛田・京成関屋も相互連絡運輸を行っている。
ではいっそのこと、駅名を統一してしまうのはどうか。
平成23年に足立区が実施したパブリックコメントでも、「京成関屋・牛田駅の一本化」が要望として寄せられていた。しかし、対する区の回答は「現状では困難な状況」とのこと。
参考:足立区総合交通計画(案)パブリックコメント実施状況および意見に対する区の考え方について(PDF)

時代は流れたとはいえ、根底にある憎しみにも近いライバル心はなかなか拭えないのだろうか。二つの駅は手を差し伸べ合いながらも、横目で睨みを効かせあっている。

2014/05/29

名所江戸百景:広尾ふる川 -きつねとたぬきと原っぱと-



名所江戸百景には川を題材にした作品が数多くある。
その中の一つ「広尾ふる川」を一言で言い表すなら「地味」である。
この風景には一体どのような名所が描かれているというのだろうか。

まず注目するのが、画面中央に流れる河川にかかる橋であろう。
タイトルからもわかるように、この川は「古川」である。
古川は天現寺橋を境に渋谷川と接続されており、浜松町で東京湾へと流入していく二級河川である。

参考:渋谷川・古川流域連絡会 : 渋谷川・古川流域図



江戸当時古川に架けられていた橋は、河口から金杉橋、将監橋、赤羽橋、中之橋、一之橋、二之橋、三之橋、四之橋とあり、描かれているのは「四之橋」である。
上図は江戸切絵図から「東都麻布之繪図(1857年・安政4年)」より、四之橋周辺を抽出したものである。
(左が北を指していることに注意)
橋の脇に「相模殿橋ト云」の表記があるように、四之橋は「相模殿橋」として親しまれていた。

相模殿とは、橋の北西にあった「土浦藩主土屋相模守の下屋敷」を指す。
東都麻布之繪図では「土屋采女正」と表記されている位置である。
この采女正(うねめのかみ)は、官位従五位下で、采女と呼ばれる女官を管理する立場にあった役職である。
土浦藩土屋家では、第十代藩主土屋寅直(つちやともなお)が1837年(天保8年)に采女正を叙位されている。


さて、ここまで四之橋の話を進めてきたが、この橋がこの地を名所と言わせしめている所以かといえば、そうとは言い難い。
次に注目するのは「広尾ふる川」の橋の袂。よくよく見てみると、二階席まで客で賑わう料亭のような建物があるではないか。
この店は「狐鰻」という鰻の店である。
狐鰻が店を構える以前、四之橋には「尾張屋藤兵衛」というしるこの店があった。
「狐が化けて食べにくるほど美味しい」と評判になり、いつしか「狐しるこ」と呼ばれるようになったという。
勢いに乗った狐しるこは、その後京橋三十間堀へと移転していった。
残された四之橋の地を「狐」を冠して引き継いだのが、「狐鰻」である。
1852年(嘉永5年)発行の「江戸前大蒲焼番付」では、世話役に「麻布 狐鰻」の名がある。(参考:東京都立図書館 6. 江戸前大蒲焼番附
また作成年は不明だが、「江都自慢」という番付でも「古川 狐うなぎ」の文字が見て取れる。名立たる名店と肩を並べているようだから、それなりの有名店であったのだろう。

麻布界隈では狸狐伝説が幅を利かせていたようで、七不思議として伝承が残っていたりするようである。かつては白金に「ムジナ横丁」なる場所もあったようであるし、なにより「麻布狸穴町」という地名、渋谷川に架かる「狸橋」、元麻布には「狸坂」・「狐坂」など、現在までその痕跡が残されているものが多い。


これまで記したように、「広尾ふる川」には、中央に「四之橋」、左端には「狐鰻」が収められている。しかし、これまで触れていない大きな存在がそこにはある。この絵で最も面積を占めるものーそう、「野原」である。

画面奥に広がる原野は、「広尾原」と呼ばれる未開の地で、鳥類の生息に適していた。
そのため将軍御抱えの「鷹場」としての役割を果たしていたようである。
近隣の「碑文谷原」、「駒場原」などと合わせて「目黒筋」と呼ばれていた。


上図は1805年(文化2年)に作成された「目黒筋御場絵図」である。
下が北を向いており、東西を古川・渋谷川が流れているのがわかる。
四之橋は左下「麻布町」の文字の上に描かれている。そこから川に沿って西(画面右)に向かうと、水車橋の位置に緑色に塗られた「廣尾原」の広大な土地が確認できる。
広重は廣尾原を江戸名所図会でも描いており、江戸が発展していく中でもしぶとく生き残る田園・原野の雰囲気が魅力的だったようだ。

現在の四之橋にある説明板に、このようなことが記されている。
四之橋の由来
この橋は、高輪の葭見坂から麻布本町に向かう、古い街道すじにあったという伝承があるので、始めて架けられたのは、江戸時代よりも前のことであろう。(以下略)
つまり、かねてから主要な街道筋であったようだ。
そのため多くの人々がこの場所を行き来していたであろう。

大名屋敷が立ち並んでいた麻布本町側から、麻布台を薬園坂で駆け下りていく。
古川に突き当たると、寺町から臨む廣尾原の広大な風景が。
「うくひすを尋ね々々て阿在婦まで」
そんな句を残す者が出るのも、必然なのだろう。

かつて360度開けていた空は文明に覆われ、狐狸の鳴き声はおろか鳥のさえずりさえ通りづらくなっているようだった。







2014/04/30

名所江戸百景:待乳山山谷堀夜景 -隅田川に落ちる光と影-



休日に「猿わか町夜の景」の現場、浅草六丁目あたりを探索していた。
その日は天候に恵まれたものの、車通りが多かったので、なかなか目的地を深く見ることができなかった。
仕方なし、隅田川沿いをとぼとぼと歩いているとき、ふとこの辺りに名所江戸百景の作画地点があることを思い出した。

木目が見える程の黒をベースにしたこの作品は、隅田川東側から待乳山(まつちやま)・山谷堀を芸者越しに臨んだ風景を写している。
画面中央の森のようなこんもりとした影が待乳山である。
その脇には隅田川に流れ込む山谷堀と、それを跨ぐ今戸橋が描かれている。
山谷堀の両脇に灯る明かりは、向かって左側が「竹屋」、右側が「有明楼」という船宿である。


上図は、「江戸切絵図 今戸箕輪浅草絵図(嘉永二年(1849)〜文久二年(1862))」より隅田川に山谷堀が注ぎ込む地点を拡大したものである。絵の右側が北向きとなっていることに注意して頂きたい。

下側の左右(南北)に流れるのが隅田川である。
その隅田川から山谷堀を辿って一番目にかかる橋が「今戸橋」である。
新しい港という意味の「今津」が転訛して「今戸」という地名になったとされており、隅田川西岸に広く分布していた地名である。

今戸橋の南(上地図でいう左)にある「聖天社」は、「待乳山聖天宮」を指す。
ここは小高い丘になっており、かつては東に筑波山、西に富士山を臨むことができたという。

また待乳山はかつて「真土山」と書いた。
沖積低地には珍しい堆積層の台地であったため、「真の土」がある山という意味で真土山と呼ばれるようになったとも言われている。
それもあって、「今戸焼」と呼ばれる瓦や人形・土器などの製造が盛んであった。

江戸期の山谷堀

山谷堀は、荒川の氾濫対策として、箕輪(現在の三ノ輪)から今戸までを結んだ水路である、とされているが、山谷堀が作られた正確な年代は解っていないのが現状である。
山谷堀沿いに水害対策として築かれた「日本堤」は、元和6年(1621年)に作られており、山谷堀は少なくともこれ以前には存在していたはずである。

この流路には、江戸時代末期に繁栄した「猿若町(1843年頃成立)」などもあったが、中でも「吉原遊郭(1656年に山谷堀沿いに移転)」へ通うための交通手段として、山谷堀が利用されていた。
吉原へは猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれる小型の木舟によって向かうことができ、吉原へ通うことを「山谷通い」と言うほどだった。

つまり山谷堀=吉原なのである。
広重が絵の最前面に芸者を選んだのも、当然と言えよう。

明治以降の山谷堀

栄華を極めた吉原も、明治以降は他の花街に勢いを押され、次第に規模が縮小していく。
とどめとなる1958年の売春防止法の施行により吉原は閉鎖され、いわゆるソープ街として運営を続けていくも、徐々に衰退していくのである。

同様に山谷堀も1958年以降埋め立てが進められ、1975年には全てが埋め立てられた。現在は、日本堤から隅田川河口までは「山谷堀公園」として整備されている。
一部の橋の橋柱が残されているのと、交差点名に橋の名前が使用されていることから、かろうじて、かつてここが水路の流路であったことを思い起こさせてくれる。しかし、今や今戸周辺はいわゆるホームレスの巣窟なのである。この「今戸橋」の写真を撮ったときも、後ろを振り返ればその類いの一団が日光浴をしていた。
高度経済成長に伴った日雇い労働者の増加により、台東区と荒川区に広がる「山谷地区」周辺には簡易宿泊施設が立ち並ぶいわゆる「ドヤ街」として賑わっていた。
今は労働者というよりは、高齢者の姿が目立つ。
もちろん、かつて山谷を根城にして生活していた労働者の今の姿であったりもするのだが、むしろ地方から身寄りの無い高齢者が簡易宿泊施設を頼って集まってきているのだという話を最近のニュースで見かけた。


広重が絵を書いた位置と思われる辺りから、現在の山谷堀跡を臨んでみた。
待乳山は周囲のビルに埋もれて、その高さがよくわからなくなっている。
また山谷堀も水門に阻まれ、どこが隅田川へ流入する地点だったかもわかりづらい。
少なくとも夜になれば、船宿のわずかな明かりどころか、空がまぶしいほどの光で対岸は埋め尽くされるだろう。
しかし、その光がそこに住んでいる全員に享受されている訳ではないことを、改めて思い知らされた次第である。