気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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©こけ
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2015/10/20

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day6の① 〜大日峠を越えて〜



秩父巡礼の旅も6日目となる。西武秩父駅7:35発の小鹿野線小鹿野車庫・栗尾行きバスで、終点の栗尾で下車。ちなみに終点で降りたのは私だけ。本日はここから34番寺まで一気に攻めたいと思う。

栗尾バス停前の馬頭観音と千手大士碑に今日の無事を祈願し、歩を進める。

石碑群の隣には十一面観音堂。中に十一面観音が祀られているのだろうが、確認することはできなかった。
十一面観音は病気治癒を祈願して祀られることが多く、往時から人気の高い観音であったそうだ。



畑の脇には「得大勢至尊」の石碑。得大勢至尊は勢至菩薩のこと。庚申講とならんで良く見られる「二十三夜講」では、陰暦二十三日に勢至菩薩を念ずる講である。この石碑は二十三夜待で利用されていたものなのだろうか。
こういったガイドマップにも載っていない石碑を発見するのも歩き旅ならではの楽しみである。

少し進むと右手に幾つもの石碑・石仏がまとめられている。勘定木橋石仏群のようだ。庚申塔・供養塔・地蔵などが並んでいる。国道の付替え工事の際に移設されたのだろうか。
少し進むと栗尾沢に「勘定木橋」が架かる。橋の袂には「埼玉の砂防発祥地」の石碑が置かれている。しかしときがわ町にも同様の発祥碑があり、砂防が築かれたのもほぼ同時期だという。
また少し進むと、新興住宅地の如く同じ姿の家屋がずらりと並んでいるエリアに遭遇した。町営の滝原団地である。鉱山か工場の従事者用住宅だろうか。
住人も現役を退いている人がほとんどだろう。子供が居なくなった公園の錆びた滑り台やブランコが某ゲームの世界のようで、それは恐ろしくもあり物悲しくもあった。

松坂、黒海土バイパス前の交差点を過ぎ、次の信号の手前に石仏群がある。寛政10年(1789年)建立の如意輪観音・馬頭観音などが立ち並ぶ。
この場所は明治初頭には飯田村に属していた和田の集落の入口のようだ(飯田村は明治22年に三田川村に、三田川村は昭和31年に小鹿野町に合併した)。

石仏群脇の道から国道を離れて小鹿野の中心街へ向かう。小鹿野は武州街道の宿場町として栄え、県内で二番目に町政が施行されたほど。
小鹿野の町中には至る所に歌舞伎のポスターや写真が掲げられている。小鹿野には二百数十年前に初代坂東彦五郎により江戸歌舞伎が伝えられ、明治期には常設舞台や興行巡業が最盛を迎えていたという。近年は町民総出で舞台を作り上げる活動が盛り上がっている。
小鹿野郵便局を過ぎた辺りで、県道をから細い路地へ入っていく。白山神社・大ケヤキの脇をすり抜けていく。道を間違えてしまったかと思えば、昭和年間建立の庚申塔が道案内してくれる。



さらにその先、下り坂になっている辺りに屋根付きの地蔵尊が鎮座している。安永4年(1775年)建立の地蔵で、台座には「右三十二ばん道」と刻まれている。
坂は赤平川へと下っていく。




金園橋から赤平川を臨む。11月中旬ということもあり木々の色づき始めが目に優しい。
丁度この場所は小判沢と赤平川が交わる地点である。小判が注ぐ地、つまり「金の園」にある橋であるから「金園橋」と命名されたという。


小判沢に沿って坂を登り、同名の「小判沢」集落に辿り着く。とある住居の一角に「こんせい宮」と書かれた額が掲げられた小さな鳥居があった。こんせい(金精)宮では、男根を模した自然石をご神体として祀っており、子孫繁栄を祈願している。
集落を抜けた辺りに大日峠へ向かう山道の入口がある。「熊出没」の文字がまぶしい。
道はしばらく小判沢沿いを進む。そんな中のボロボロの弁財天の碑。沢沿いの道ということもあって、足元は常時ぬかるんでおり、滑りやすい箇所も多くあった。
この辺りで32番寺から来た巡礼者とすれ違った。白装束を身に纏い、鈴付きの金剛杖を鳴らしながら向かってくる様は、迫力すら感じる。閑散とした山中で交わす短い挨拶は、なぜか安心するものだ。
山道に入って20分程で大日峠に到着。峠の名前の由来にもなった大日如来像が新旧揃い踏み。傍には大正8年(1919年)に設置された道標が立っている。
峠ではハイカー数人が小休憩を取っているところだった。峠から先はひたすら下りとなり、一気に麓まで降りていく。

10分程下ると集落の屋根がちらほら見え始める。石碑(おそらくお墓?)が山間の一角にまとめられており、この辺りまでが村民の日常的な活動範囲なのだろうと予想できる。
柿の久保の集落に出ると地蔵尊が出迎えてくれた。隣には道標も添えられており「順禮道」「左山道」と刻まれている。

そして三十二番寺はすぐそこに。

2015/09/23

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day5の④ 〜峠とトンネルと地蔵と石段を越える〜



巡礼街道ではなく巡礼「海」道とは言えど、ここは海無し県で有名な埼玉である。
なぜこの道がこのような愛称で呼ばれるようになったかは分からないが、荒々しくも雄大な川の流れに海を感じたのだろう。

薄川(すすきがわ)はヤマメの渓流釣りでも有名な川。未舗装路に入ってから竹やぶを抜けると、丁寧に整備された木橋があるのでこれを渡り薄川の対岸へ。川幅はそれなりに広く、僅かながら「海」感が滲み出ていた。
橋を渡るとややキツい登り坂となる。そのまま登ると県道279号に出る。

ここからは峠越えの道となる。その入口である坂戸の集落には馬頭尊と文政12年(1829年)の秩父坂東西国四国供養塔が置かれている。
石碑の奥は小さな墓地となっているが、その脇に「竹内いしの墓」という説明板があった。ざっくり人物紹介すると、両親への孝行ぶりが素晴らしいということで緑綬褒章を授受した女性だという(参考:埼玉ゆかりの偉人/検索結果(詳細)/竹内 いし - 埼玉県)。
それほど掛からず権五郎落(ごんごうおとし)峠に到達。巡礼海道に入るところにあった道標には「五合峠」と記されていた。名前の由来は、「権五郎さんが足を滑らせて落ちたから」とか「五合の品物を落としたから」とか迷信の域を出ないものであった。調べた中では、近くに「三合落岳」もあることから、山の高さを表しているのではないかという説が最も説得力があった。
峠の両側は切通しになっていて見晴らしは無く、そのまま緩やかに下り坂となる。

巡礼道は赤平川を渡り国道299号にぶつかる。かつてはほぼ直線上に川を渡る道筋だったようだが、道は失われている。飯田橋で迂回して国道に辿り着いた。
少し進むと川沿いに祠と様々な石碑(如意輪大士、巳待塔など)が纏められている箇所があった。おそらくかつての巡礼道はこの場所で国道に突き当たっていたのだろう。

道標群の向かい側にぽつりと置かれている石は、よく見ると文字が彫られている。調べてみたところ平成2年の国道改修工事で発見された道標で「左 三十番 三峰山 右三十一番 右三山 信道(※刕は州の旧字体)」と刻まれているらしい。かつては表裏両面見ることができたようだが、この時は塀に立て掛けられていて片面のみ見ることができる状態だった。
道標の隣には「飯田十王堂」が圧倒的存在感の無さで潜んでいる。十王とは冥土で罪を裁く10人のいわば裁判官のことで、これを祀っているのが十王堂である。死後の罪を軽くしてもらうために、十王の供養をしようという「十王信仰」に基づいたものであろう。


三田川郵便局の脇の道から国道を離れる。その場所に寛政12年(1800年)建立の「千部供養塔」が置かれている。六十六部供養塔の千回バージョンかとおもいきや、こちらは法華経(もしかしたら他の経典かも)を千回読誦した記念として建てられたもの。
道標も兼ねており「右小かのみち 三十一番道」と刻まれている。
岩殿沢を渡る旧道はよくわからなかったので、宮平橋を渡って三十一番寺へ向かう登り坂へ突入する。
庚申塔や大勢至菩薩石碑などの石碑が点在しているエリアの一角に大日堂が鎮座している。内部には大日如来と双体道祖神が鎮座しているようだが確認できなかった。


さらに登るとちらほらと地蔵の姿が目に入ってくる。やけに多いなと思っていると、気づけば四方を地蔵に囲まれているではないか!
ここは昭和46年(1971年)創建の地蔵寺で、水子を供養する地蔵が1万4千体以上も祀られている。ほとんどすべての地蔵には赤い布と風車が供えられており、山間に揃って並ぶ地蔵たちの姿は「圧巻」という言葉が思わず口から出てしまうくらい幻想的な姿であった。
地蔵寺を過ぎると観音山トンネル(1980年完成)を越えることになる。トンネル入口の左側には旧道が残されており、馬頭観音が鎮座している。右側の馬頭観世音碑は文化12年(1815年)のものである。
今回は旧道を使って観音山トンネルを越えた。やや藪が深い箇所があるので注意されたい。

トンネルの先のガードレールには東国西国秩父百観音の札所が記されたプレートが掲げられていた。秩父は狭いエリアに札所が固まっているが、東国・西国については広大な範囲に札所が散らばっているのがよく分かる。
私が今目指している31番寺は百観音もとより秩父巡礼ですら半ばだということを改めて実感させられた。


三十一番寺観音院の「入口」に到着。立ちはだかるは明治元年(1868年)制作の仁王像。ここから296段の石段、標高差53mを一気に駆け上がる。


納経所の終了時刻も迫っていたので、急ぎ足で石段を登る。息を切らしていると下山してくる参拝者から声を掛けられる。「もう半分」「あとちょっと」という優しい言葉は気持ちだけ受け取って鵜呑みにしないようにするあたり、素直な心が未熟である。
丁目石をカウントしている内に、最上部に到達した。断崖の元に佇む観音堂は近年コンクリート造りに再建されているものの、堂々とした風格を放っている。

納経を済ませ、参拝もさながらに、今度は最終バスの時間が差し迫っているので急いで下山。栗尾のバス停で西武秩父駅行きのバスに無事乗ることが出来た。

徒渉・崖道・地蔵軍団、そして石段の先にある崖下のお堂と、これまでの人生であまり経験がないインパクトのあるシーンが経験ができた貴重な一日となった。

2015/08/26

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day5の③ 〜小鹿野町へ突入〜



大指集落の外れ、大指バス停の奥には文化6年(1809年)建立の巳待塔が鎮座している。
巳待が行われる「巳の日」は弁財天の縁日でもあり、弁財天が水を司る神であることから、巳待講は水害が多発する地域でよく見られる。この巳待塔のある場所もすぐ脇に沢が流れている。
県道37号線を緩やかに登ると小鹿野町(旧両神村域)に突入する。

小鹿野町に入ってしばらくすると、かつて一里塚や巡礼宿があったとされる東下野沢に差し掛かる。その痕跡を探してみたが何も見つからなかった。
さらに道なりに進むと右手に八坂宮と巳待塔が鎮座している。隣接する住宅を改築した際に整備したらしく、整然と座している。巳待塔は明和4年(1767年)のもの。

ダイハツ自動車の整備工場脇を進み県道を離れる。屋根のある地蔵と二十三夜塔がある「馬坂」を登ると間庭の集落となる。
ここで最も存在感を放つのが「間庭の祠」である。八坂神社、鬼神神社、妙見宮などが祀られている。このうち八坂神社の元では毎年7月に「甘酒まつり」が開催されており、地元の信仰を集めている。
間庭の祠を右手にして道なりに50mほど進むと、右手の畑と民家の間に道ともいえぬ隙間がある。進むと民家の裏になにやら道が伸びている。道と言っても足元もおぼつかない未舗装路で、2度ほど切り替えしながら川へと下っていく。しばらく放置されていたようで、奔放に育つ木々によって寸断されている箇所もあった。
そんなこんなで小森川の河川敷に到達した。巡礼道は川を橋で渡っていたようだが、現存せず流れも急であるので近くの小森橋で迂回した。
対岸の旧道を登ると、天保12年(1841年)建立の霊符尊碑が道標と共に置かれていた。
道教の北辰(北極星)信仰に端を発する北辰妙見信仰において、霊符尊は北辰を神格化したもの。仏教で言うところの「妙見菩薩」と同等である。丁度小森川を挟んで対岸にある間庭の祠にも妙見宮が鎮座しており、もしかしたら対をなして意味を持つものなのかも知れない。
再び県道37号に合流すると味のある洋館に遭遇する。これは大正12年(1923年)築の近藤酒店(近藤銘醸)の店舗兼住宅だったもの。「秩父路」・「秩父志ら藤」などの銘柄を持つ造り酒屋であったが、平成16年(2004年)に後継者が途絶えたため250年続いた醸造業を廃業。現在は秩父ワインが建物を所有し、美術展などを不定期開催しているという。

道の駅両神温泉薬師の湯のお食事処で「薬師そば」をいただく。感想としては素朴な味の蕎麦だったと言っておこう。
道の駅の隣に建つ「法養寺薬師堂」は室町時代の創建で、日本三大薬師の一つに数えられているという(日本三大薬師には諸説あり、当寺を含めない説も多数ある)。奉納されている「木造十二神将立像」は、天正13年から14年(1585〜1586年)にかけて北条氏邦(1568年頃から鉢形城主であった)とその家臣らが奉納したものとされている。
小鹿野警察署両神駐在所と両神ふるさと総合会館の間の道を進み、小鹿野町役場両神庁舎の前に出てくる。庁舎と駐車場の間にちょっとした桜並木があり、その入口に「ミぎ三十一はん」の道標を兼ねた二十三夜待供養塔が鎮座している。摩耗して文字が読みにくいが、安永七年(1778年)のものとのこと。

ここからは「巡礼海道」と呼ばれる風情のある風景が見られる道となる。

2015/08/08

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day5の② 〜巡礼古道は危険がいっぱい〜



贄川宿は秩父甲州往還で大宮郷(現:秩父市)を出発して最初の宿場である。単なる宿場としてでなく、秩父三十三箇所巡礼で最も長い区間である三十番〜三十一番札所の中継地としても重要な役割を果たしていた。また三峰参拝の拠点でもあったため、当時はかなりの栄えていたと考えられる。宿場の東口には「六十六部廻国供養塔」などの石碑が置かれていた。

ここから先の巡礼古道は二通りのルートがある。
一つは贄川沢の西側山沿いを行き町分集落から伸びる「町分ルート」。三峰詣の参拝客が利用していたルートで、江戸巡礼古道の案内板もこの道をトレースするように案内している。
今回はもうひとつのルート「本コース」を辿ることにした。
本コースは贄川沢の東側に伸びるルートで、本来の巡礼古道である。しかし崩落が激しい箇所などがあり危険なため、あまり公式にオススメできないということで、特にルートの案内は無い。どうせなら本格的な道を堪能したいという一心で本ルートに足を運んだ。

本ルートの第一チェックポイント「阿弥陀寺」。入り口には味のある書体の木版が掲げられている。
阿弥陀寺はその名の通り阿弥陀如来を本尊としており、近年は無住となってしまったものの、開創は貞治二(1363)年の室町時代と歴史ある寺院である。また昭和55(1980)年に設定された秩父十三仏霊場の一つに数えられている。

手持ちのマップだと道がわかりづらく同じ場所をぐるぐる回ってしまった。途中大きめの蜘蛛の巣にかかり大声を上げてしまう失態を晒す。
阿弥陀寺の西側にある、右手に石碑群が並ぶ場所を左に入る未舗装路がおそらく正しいルート。マップにある「欅の大木並木道」というのはこの道を指すのでは無いかと思う。

しばらくすると再び舗装路に合流し、道なりに進むと鬱蒼とした林に足を踏み入れていく。勇気を振り絞って奥へと進んでいくと「林道ガニ沢線」の標識が見えてくる。その脇をよく見ると「巡礼道」の標が心もとなく添えてある。
江戸巡礼古道で最も往時の雰囲気が味わえる林間コースの始まりである。
林道を逸れて林の中に分け入っていく。道筋が見えないくらい草に覆われている箇所もあり、念のため軍手を装備しておいた。
すると早速H鋼でできた橋に遭遇する。その下の沢までの高さは2mほどだろうか。場所の雰囲気もあって恐怖心が高まる。滑らないよう足元に気をつけながらゆっくりと渡った。

H鋼の橋を渡ってホッとしていると、すぐに次の刺客が現れた。木製の橋である。そのフォルムは草と苔で完全に覆われ、どれくらい朽ちているのかもわからない。元々丸太を並べてできた橋だったようだが、何本かは失われてしまっていて、周りを土で固められている。不安な人は橋を渡らずに沢を渡るのも策かもしれない。

ところどころ「巡礼道」の道標があるので、道を間違えていないことを確認できて安心できる。しかし、気を緩むことなかれ、この道には危険箇所がまだ存在する。
左の写真は奥から手前に伸びる巡礼道だ。しかし右半分は崩落しており、その下は底を視認することができないほどの崖である。両足を並べたら一杯になってしまう幅の崖際の道を慎重に進む。
崖越えのあとはしばらく気持ちの良い林道が続く。再び木製の橋を渡る箇所もあるので注意。道標などに注目していけば特に迷うことなく進めるはずである。
しばらくすると贄川宿で別れた町分コースとの合流点に到達する。その地点に置かれた案内板には、町分ルートが赤矢印、本ルートが灰色の線で示されている。ここからも、本ルートが非推奨のルートであることがわかる。
ルートの合流地点のすぐ傍に贄川沢が流れている。ここからはこの沢を何度が渡って進んでいく。水量が多い時は町分ルートを戻り迂回しなければならないが、この日は水量は少なく、流れも穏やかで心地よかった。
徒渉には先人が残していった飛び石をうまく使えば、ほとんど濡れずに渡ることができる。つい最近誰かが残したであろう足跡が飛び石に残されていて、我々以外にも物好き(失礼)がいることを改めて認識する。
4回ほど徒渉を繰り返し、登り坂を進む。巡礼道の道標脇で台風か何かで倒された枝が道を塞ぐ様は、時代の流れとか諸行無常とか、そういったものを想起させるシーンである。

急坂を登り切ると古びた建物が目に飛び込んでくる。どうやら林間の道を抜けて諏訪神社に辿り着いたようである。秩父地域は戦国時代に小田原北条氏の領地であったことから、北条氏と結びつきの深い諏訪信仰が根付いているのであろう。
戸が常に閉ざされているようだが、周囲に祠がいくつかあるので、賽銭などはこちらで行えばよい。

神社の先の道を行くとようやく開けた場所に出てくる。大指(おおざす)は十数世帯ほどの小さな集落だが、それでも人家が近くにあるのは安心するものだ。
ここで足元が舗装路へと変わり、一時間弱共にした土の感触とお別れする。

今回辿ったコースは崩落地点や朽ちた橋などの危険箇所が点在することもあり、近いうちに通行不能になってしまうのではないかという懸念すらある。こういう道をどう保全していくのかが観光資源としての巡礼道のあり方を考える良い材料になりそうである。


2015/07/06

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day5の① 〜はじめての徒渉〜



秩父巡礼の旅5日目は、秩父鉄道白久駅からスタート。今回は友人を引き連れての文字通り「同行二人」の旅となる。
まずは30番札所を目指すわけだが、巡礼古道は少々わかりづらい場所から始まっている。目印は線路脇の馬頭観音だ。砂利道を進んでいくとこじんまりとした笠間稲荷神社があった。なにやら草木がガサガサと音がすると思えば、神社が野猿に占拠されていた。友人はこういう経験があまりなかったようで、だいぶ興奮していた。
サルたちに見送られて先に進むと、「橋場の双体道祖神」が鎮座していた。元々別の場所にあったものが最近になって移設されたものとのこと。

車道に出てきた。谷津川が削った谷間の道を登っていく。橋場の集落を横目に進むのだが、なかなかの登り坂である。
道中、川沿いの安定しない場所に建つ家の幾つかは廃墟のような荒み具合であった。巡礼道中とはいえ山間の集落である。過疎化の影響が目に見えてわかってしまい、少し悲しい気持ちになった。


30番札所・法雲寺に到着。境内には心字池を伴った浄土庭園が広がり、その景観は三十三箇所随一という呼び声も高い。その庭園に浮かんでいるかのように、観音堂は庭園より一段高くに位置する。

観音堂には回廊が巡らされており、姿が龍に見えるという「飛龍の松」が展示されている。
また、寺宝の一つに「巡礼納札」がある。「納札」は訪問の証に自分の姓名や住所を書いたものを寺社に納めたもので、これを簡易的にしたものが千社札にあたる。法雲寺に納められている天文五(1536)年の木版の納札には、「西国・坂東秩父百ケ所巡礼」と刻まれており、百観音の成立に関する貴重な資料となっている。

法雲寺を後にして、今度は同じ道を下っていく。白久駅が目前に迫ったとき、左の看板が目に入ってくる。後付の「通行注意」が意味するものは何かと問われれば、道があることが何となく分かる程度に藪が茂っていることではないかと入り口から想像がつく。その藪に、おっかなびっくり突っ込んだ。少し下り坂になっており、湿った草によって滑りやすくなっていた。

左手に山を従えながらうっすらと轍の残る未舗装路をゆく。しばらく進むと小さな祠が見えてきた。近くには古びた柄杓が置かれており、ガイドマップが指す「湧き水」の地点かと思われる。水の流れは緩やかで、湧き水と言われなければ単なる用水路かと思うほどである。


足元が土からアスファルトに変わり、原の集落を進む。途中「原の天狗まつり」の標柱が設置されていた。秩父ではかつてほぼ集落単位で天狗祭りなる催事が行われていたが、現存しているのはここだけだそう(原の祭りも平成24年度から中断している)。
右三十番と刻まれた安政九(1780)年の庚申塔を横目に荒川幹線4号線をゆく。
秩父鉄道の線路をくぐり、細い道に入ると文化6(1809)年の「東国高野大日向山石標」と「歴史の道 秩父甲州往還道」の標柱があった。
大日向山は「太陽寺」を表す。高野山は通常女人禁制だが、奈良の室生寺は女性でも参拝できる高野山として人気を博した。その東国版が太陽寺であったため、「東国の女人高野」として多くの参拝客が訪れたのだ。
秩父甲州往還ルートである直進の道をゆく。
しばらくすると左側に「六所大神」の祠が見える。麻疹や疫病除けの神様として崇められ、近くの「六所橋」の下を潜ってお参りしていたそうだ。また縄文時代の祭祀に使用されていた「石棒」が見つかるなど、古くから子孫繁栄の祈願が行われていたことが伺える神聖な場所となっている。

さらに先に進むと江戸巡礼古道の案内板があり「本来の古道だが川を渡れない」と書かれている。いつもならそうかそうかと迂回路へ進んでいくのだが今回は一味ちがう。確かに橋も渡しも無い現在では川を渡るのは難しい。しかし、事前に川の水量が少なければ歩いて渡れるとの情報を得ていたのだ!

荒川へ下る栃の木坂の途中、子供を抱いた姿の地蔵尊が置かれていた。「おしげ地蔵」とも呼ばれるこの地蔵は、昔ここで亡くなった親子を慰霊する目的で作られたものだそう。
近くには朽ち果てた馬頭観音らしきものも置かれており、僅かな区間ながらかつては険しい道程であったことを伺わせる。


栃の木坂を下りきるとそこには悠然と流れる荒川の姿が。
上流には、川を渡らない場合迂回することになるはずだった「白川橋」の様子も望める。
かつてはこの地に栃の木坂の渡し(八幡坂の渡し、川端の渡しとも呼ばれる)があったが、前述の白川橋の完成により昭和4(1929)年に廃止されている。

この日の荒川の様子は、水量もそれほど多くなく流れも穏やかであった。しかも飛び石が一帯に点在しており、うまくいけば濡れずに済みそうだ。安定していそうな石を選びつつ進んでみると、中洲のような場所まで濡れずにたどり着く事ができた。
しかしここからはどうしても水の中に入らなくては先に進めそうにない。靴と靴下を脱いで川を渡っていく。初秋のこの時期の川は刺すように冷たく、なかなかの関門となった。

川は思いの外深く、結局膝下まで浸かってしまった。どうにか対岸に辿り着き、砂利道を登っていくと、旧贄川村の村社・八幡神社と石仏群が迎えてくれた。おそらく渡しの名前にもなっている「八幡坂」がこの坂だろう。
かつて八幡神社の周囲には、荒川を渡った人の休息地として茶店や酒屋などがあったそうだが、現在は杉林に覆われて人影すら見当たらない。


八幡坂を登り、小休憩がてら贄川宿へ向かう。今日の旅はまだ始まったばかり。