気の向くままにつらつらと。

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2020/01/04

羽沢横浜国大駅を都市計画の視点で眺める


令和元年(2019年)11月30日、相模鉄道が念願の都心乗り入れを果たした。大正6年(1917年)に開業して以来、実に100年を超えた悲願の達成である。この偉業を達成するのに必要不可欠だったのが、乗り入れに合わせて開業した「羽沢横浜国大駅」の存在である。

しかし、当駅のことを調べてみると、駅周辺のアクセスが非常に悪いという話が耳に入ってきた。
先日相鉄線のJR直通運転を特集したテレビ番組「タモリ倶楽部」内でも、空耳アワーの解説員・安西肇氏が、開業前の当駅に公共交通機関でたどり着くことが困難として、コーナーが中止となる自体が発生している。

参考
相鉄・JR直通で誕生する「羽沢横浜国大駅」の利便性が恐ろしく悪いワケ

上記記事では、相互直通運転を行うにあたり、本線から分岐した連絡線を経由して他路線に乗り換えるという特殊な事情がこの不便な駅を生んだとしているが、本ブログでは羽沢町の街づくりの観点からこの状況がなぜ生まれたのかを考察してみようと思う。

横浜市編入までの羽沢地域の様子

羽沢横浜国大駅は、名前の通り「羽沢」という場所に位置している。正確な駅の所在地は、「神奈川県横浜市神奈川区羽沢南二丁目471」である。
羽沢と呼ばれる字は「羽沢町」と「羽沢南」が存在してるので、しばらくはこれを総じて羽沢地域と呼ぶことにする。

この地域には明治時代まで羽沢村が存在し、明治初年度の領地をまとめた旧高旧領取調帳によれば、羽沢村は旗本領(酒依清之丞知行)であった。

明治22年(1889年)、羽沢村は明治の大合併により、小机村、鳥山村、岸根村、下菅田村、三枚橋村、片倉村、神大寺村、六角橋村と共に合併し、橘樹郡小机村となる。ここで羽沢村は消滅するが、字名として存続することになる。

ちなみに明治35年(1902年)には、小机村以外の村から不満が出たため、村名を城郷村に改めている。城郷は小机城に由来した名称である。


明治39年(1906年)の古地図(1/20000 「小机」明治39年測図41年製版
今昔マップ on the webより)を見てみると、羽沢と呼ばれる集落は現在の羽沢幼稚園入口バス停〜釈迦堂前バス停辺りに広がっていたことがわかる。また集落は鶴見川支流の鳥山川北側の道路沿いに発展している。南に位置する羽沢天屋のあたりは谷戸が入り組む地形となっており、谷の底は水田、斜面は森林と果樹園の土地利用となっていたようだ。

横浜市における羽沢は「緩衝材」であった

昭和2年(1927年)、横浜市に編入され城郷村は消滅。同年10月に区政施行により神奈川区の一部となる。
羽沢地域は横浜中心部からの直線距離は近いものの、丘陵部に位置する地域だったこともあり、活発な都市開発は行われず、これまでの農業による土地利用が中心であった。

昭和8年(1933年)に、神中鉄道(後の相模鉄道)が横浜駅に乗り入れし、厚木〜横浜間で開通する。このとき丘陵部であった羽沢地域はぐるりと迂回される形となり、羽沢町の中心地に向かうには保土ヶ谷区の西谷駅から高低差40m程の丘陵地帯を超える約3kmの行程を余儀なくされていた。

戦後の1960年代に入ると、高度成長や人口の首都圏集中の余波が羽沢地域にも及ぶこととなる。
昭和39年(1964年)には東海道新幹線が開業、昭和40年(1965年)には第三京浜道路が延伸する。これらは羽沢地域を「通過点」として利用するものであり、羽沢地域自体を大きく開発しようというものではなかった。

昭和41年(1966年)、鶴見〜戸塚間の東海道貨物線支線の建設計画を国鉄が発表する。この計画に対しては沿線の住民運動が過熱し、公共の建設計画に対する住民の反対運動を「住民運動」と呼んだ日本初の事例となるほどであった。この計画で、貨物駅である横浜羽沢駅が整備されることとなり、羽沢地域において初めて大規模な開発が行われることとなった。

そんな最中、昭和43年(1968年)に「新」都市計画法が制定される。「新」と付けているのは、同名の法律がこの年に廃止となったためである。
この法律は、高度成長に伴った無法な都市開発を抑制し、秩序を保った都市計画に則ってまちづくりを進めていこうという目的で制定されたものである。そしてこの法律において特に重要なのが、「市街化区域」と「市街化調整区域」の区分である。
市街化区域は、"すでに市街地を形成している区域及びおおむね10年以内に優先的かつ計画的に市街化を図るべき区域"と定義されている。一方、市街化調整区域は"市街化を抑制すべき区域"と定義され、市街化区域と対をなすような関係になっている。特に市街化調整区域については建築上の制限が厳しく、住宅などの建物の造成も自由にはできない地域となっている。

昭和45年(1970年)、横浜市がどの地域を市街化地域・市街化調整地域に定めるかの「線引き」を実施した。この結果、羽沢地域については古くからの集落があった地域(上記地図の羽沢・綿打などの集落があるエリア)、羽沢町の東端、現在の羽沢南エリアを除いてほぼ全域が市街化調整地域、つまり直近での積極的な開発を行わないエリアに指定された。

参考
横浜市の都市計画史(PDF)
4.急激な都市成長への対応(1951~1988)
に、当初線引きでどの地域が市街化地域・市街化調整地域のマップがある。

この線引きでは、横浜市域の75%を市街化区域、25%を市街化調整区域に定めている。この時の他の都市部の市街化調整区域の割合は、東京都5%、川崎市12%、名古屋7%であったので、横浜市が都市開発についてかなり慎重に進めようとしていたことが窺える。

さらに昭和47年(1972年)、菅田・羽沢農業専用地区が整備される。この農業専用地区の制度は横浜市独自のもので、"都市農業の確立と都市環境を守ることを目的とした"地域に設定される。この制度も無秩序な都市開発を抑制する目的がある。
現在ではキャベツの市内有数の産地でもあるこの農業専用地区は、先述した東海道貨物線の横浜羽沢駅建設に伴って発生した大量の土砂を埋め立てて整地した、いわば「開発の後処理」に利用された土地でもある。

ここまでみても、羽沢地域は横浜市という巨大な都市において、急激な開発を積極的に行わず、農地などの緑を確保するための位置付けが強い場所であることが窺える。

羽沢横浜国大駅の設置とこれから

昭和54年(1979年)、国鉄東海道貨物線の駅として横浜羽沢駅が羽沢町字天屋に開業した。貨物線の駅ということもあり、駅周辺の開発はほとんど行われることはなかった。

動きがあったのは平成12年(2000年)、運輸政策審議会答申で、神奈川東部方面線(相鉄新横浜線・東急新横浜線)の整備についての答申があった。この答申で、神奈川東部方面線を二俣川〜新横浜〜大倉山の区間で平成27年(2015年)までに開業することが適当と判断されたのである。
この計画は起点を西谷、終点を日吉に変更して実施されることとなり、現在のJR相鉄直通線と相鉄東急直通線となった。

平成18年(2006年)には、住宅表示施行により、羽沢町から羽沢南一丁目〜四丁目が分離・新設された。この地域は元羽沢町域の中でも市街化区域に指定されていたエリアで、新駅・羽沢横浜国大駅が設置されるのもこの場所である。

平成20年(2008年)、神奈川東部方面線の開業に伴い、新駅「羽沢駅(仮称)」が設置されることが公表されると、駅周辺地域の住民が中心となってまちづくりを協議する「羽沢駅周辺地区まちづくり協議会」が発足する。

横浜市は、線引きの見直しを数年単位で行っており、
昭和52年(1977年):第1回全市見直し
昭和59年(1984年):第2回全市見直し
平成4年(1992年):第3回全市見直し
平成9年(1997年):第4回全市見直し
平成15年(2003年):第5回全市見直し
と実施してきていた。

平成22年(2010年)の第6回全市見直しでは、2号再開発促進地区の一つとして「羽沢駅周辺地区」が指定されている。この地区の再開発、整備の主たる目標は、"神奈川東部方面線の新駅整備に伴い、新たな交通ターミナルとしての拠点整備や都市機能の集積を図る。 "としている。
駅を設置するだけでなく、その周辺に必要な施設の拡充や、都市機能としてどのような役割を持たせるのかを協議し、必要に応じて開発を行おうという意思の表れである。

平成28年(2016年)には、横浜市は「神奈川羽沢南二丁目地区地区計画」を都市計画決定している。横浜国大へのアクセス等を鑑みて、コミュニティプロムナードの設置を検討しており、駅前の具体的な活用方法と開発内容が明示されたものとなっている。

そして、令和元年(2019年)、羽沢横浜国大駅が開業した。
現在は駅周辺にこれといった施設が整備されておらず、新駅の物珍しさで集まってくる観光客の利用が大半となっている。
令和4年(2022年)には、羽沢横浜国大より先の日吉まで、東急直通線が開業する予定である。さらなる駅利用者の増加に合わせて、駅周辺を整備していくという。

これまで開発の手をすり抜けてきた「羽沢」という土地が、一つの商業化した地域に変化できるのか、これからの動向にも注目である。


参考文献

2019/11/28

【歩き旅】水戸街道 Day6 その④ 〜そして梅を観る〜



水戸市に入ってすぐに、国道を離れ旧道へ。ここまで旅を共にしてきた国道6号とはここで今生(?)の別れとなる。さらばロッコク、フォーエバー。
吉澤の集落にある熱田神社に立ち寄る。文禄4年(1595年)、この後訪れる吉田神社の分霊を奉納したことに始まったという。


米沢町入口のバス停近くに、有縁無縁供養塔が置かれている。明治25年(1892年)に建てられたもので、髭題目が刻まれているとことから日蓮宗の供養塔であることがわかる。


吉澤の隣の集落は「一里塚」の字を持つ。その名の通り、この場所には水戸街道が整備された際に設けられた一里塚があった。現在は道の片側にしかないが、樹齢100年程の榎が植えられており、僅かながらに往時の雰囲気を知ることができる。


一里塚の脇には庚申塚碑と馬頭観世音碑。


さらに一里塚の一角には如意輪観音や地蔵が集められていた。


JA東水戸ホールの向かい側にしっかりサイズの道祖神が鎮座している。かつては屋根付きの祠があったようで、石の両脇の凹みが名残である。


国道50号を横切ったところに金山稲荷神社がある。この先の吉田神社の兼務社となっているようで、御朱印もそちらでもらえるようだ。
街道はこの先三叉路になっており、さらにその先で枡形状のクランクとなっている。


消防団の敷地を囲うフェンスの内側に吉田村道路元標があった。
吉田村は昭和30年(1955年)に水戸市に編入するまで存続していた村。その歴史は古く、飛鳥時代頃には「那賀郡吉田郷」として存在していたと考えられている。
現在では水戸市元吉田町として字名に残っているが、この「元」は水戸市に編入した際に既にあった水戸市吉田町と区別するために付けられたという。


県道235号を右に折れ、しばらく進むと元吉田東交差点の近くに茅葺の家がある。こちらは江戸末期に建てられた綿引家住宅。綿引家は旧吉田村で庄屋や村役を歴任しており、土間が狭く移住空間が広く作られているという特徴がある。



再び街道はクランク状に折れ曲り、その先に薬王院の参道入り口の案内がある。
薬王院は平安初期の創建とされ、常陸国三宮の吉田社(吉田神社)の神宮寺として国家安全の祈願所として機能していた。
当時の豪族、常陸大掾氏にも保護を受けていたが、室町時代に大掾氏の勢力は石岡まで後退し、代わりにこの地を支配していた江戸氏の外護を受けた。しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐により水戸一帯は佐竹氏に支配されることとなった。この際に、佐竹氏の地元・常陸太田にある一乗院を薬王院に移し、薬王院は天台宗から真言宗に宗派代えしている。
江戸時代になり、水戸は徳川光圀の支配下となった。光圀の信仰は篤く、貞享5年(1688年)には本堂を再建、元禄2年(1689年)には、関東八檀林の一つに認定している。現在では本堂が国指定重要文化財に指定されている。


沼田米殻店の隣に「神楽屋敷跡」碑があり、この場所で水戸大神楽が発祥したという。いわゆる神前で歌や舞を披露する「神楽」であるが、獅子舞などの演舞を各地を回りながら披露する「大神楽」が儀式ではなく舞台演劇として発展したものの一つが水戸大神楽で、伊勢・江戸と並び三大流派の一つであった。水戸藩の記録では、宝暦2年(1752年)に水戸御免の祭礼において神楽獅子を奉納している。
かつては獅子舞による演舞が主流であったが時代と共に現代化が進み、明治以降はジャグリング・皿回しなどの大道芸や漫才などを披露するようになった。番傘の上でいろんなものを回す芸でおなじみの「お染ブラザーズ(海老一染之助・染太郎)」も大神楽の曲芸師である。


五差路を右斜め前方向に進み、坂を下ると左手に小山が見えてくる。これは常陸国三ノ宮の吉田神社である。詳細な創建は不明だが、建久4年(1193年)には後鳥羽上皇が社殿を改修している。日本武尊が東征の際に休息した地と伝わり、祭神として祀っていることから、朝廷の崇拝が篤かったようだ。
今では地元の子供達の格好の遊び場となっており、本殿前や参道の階段など至る所で数人のグループが集まってそれぞれの遊びを繰り広げていた。


石碑に刻まれた「金」の字が不思議な金刀比羅神社があった。(この「金」の字は、「金」を隷書体で表したもののようだ。)創建年代は不明だが、明和3年(1766年)の下市の火災により社殿が消失。その後再建され現在に至っている。
かつてはこの神社の隣あたりに昭和13年(1938年)に廃線になった水戸電気鉄道の紺屋町駅があったというが、線路も駅も跡形もなかった。


備前堀と呼ばれる水路が見えてくる。慶長14年(1609年)に水戸に入城した徳川頼房が、翌年の慶長15年(1610年)に水戸城の西にある千波湖の治水と農業用水の確保のため、当時の関東郡代であった伊奈忠次に命じて掘らせたものである。忠次が備前守であったため、備前堀と呼ばれるようになった。銷魂橋の隣の道明橋上に、伊奈忠次の銅像が置かれている。


備前堀にかかる銷魂橋(たまげばし)に到着。かつては橋のたもとに高札場が設けられていた。
元は七軒町橋と呼ばれていたが、徳川光圀によって「銷魂橋」と名付けられた。普通、「たまげ」は「魂消」と書き、魂が消えるほどびっくりすることを「魂消る」と言う。光圀が何故この名前を付けたのかは定かでないが、「魂が消えるほど悲しい別れ」が生まれる場所という意味でこの名前をつけたという説がある。水戸城下と郊外を隔てるこの橋で、人々が別れを惜しむ姿を見て、心に来るものがあったのだろうか。


そしてこの橋が江戸街道の起点、つまり水戸街道の終点となる。
今回の水戸街道歩きは銷魂橋を終着地としても良いのだが、もう少し進んでみよう。


備前堀を越えると水戸城の城下町エリアとなる。本町に小さいながら綺麗な稲荷神社があった。この神社は能化稲荷神社といい、徳川光圀ゆかりの神社だという。
光圀が母・久昌院の菩提に伴い、常陸太田に久昌寺を創立した際、住職として京都より日乗上人を招いた。上人がこの地で滞在した際にお告げがあったため、ここに宇迦之御魂命を移し、祀ったことにより出来た神社である。


水戸城下は台地部の「上市」と湿地帯を埋め立てて築いた「下市」に分かれていた。本町を東西に横断する「ハミングロード513」は当時の下市の中心となる通りであった。
ちなみに「513」は商店街の全長513mを表している。


商店街はがかつての宿場であった証として、江戸(水戸)街道宿場の碑が置かれている。


ハミングロード513の東端に、「旧本四丁目 陸前浜街道起点」の碑がある。明治5年(1872年)に名称が定められる以前から、水戸より以北は岩城相馬街道などと呼ばれていた。この街道と街道の起点をもって、水戸街道を完歩としたい。


街道歩きは終わったが、バスに乗り込み移動する。
この季節に水戸に来たのだから偕楽園に寄らない手はない。ライトに照らされた梅を眺めつつ、足の痛みと共に今回の旅の達成感を味わった。

2019/11/15

【歩き旅】水戸街道 Day6 その③ 〜茨城最強の城址、そして水戸へ〜



小幡城に立ち寄るために、街道を外れる。聖徳大神と刻まれた石碑、二十三夜塔などが立ち並ぶ場所が分岐点の目印となる。一番左の明治11年(1878年)建立の聖徳大神は道標も兼ねており、「右 磯濱五里 湊六里」「左 下市三里 勿来二十二里 長岡一里二十一丁」と刻まれているという。磯濱(大洗町)、湊(ひたちなか市)は太平洋沿いの村。下市は水戸市街の下町エリアを指す。勿来(福島県いわき市)は陸前浜街道の関所である勿来関を指す。


関東自動車道をまたいだ先にある森のような場所が小幡城。室町時代もしくは鎌倉時代あたりの築城といわれ、府中城主の大掾貞国や大掾清幹の領地であったと推定されている。
天文元年(1532年)、水戸城主・江戸通泰が小幡義清を大洗で殺害し、江戸氏所有の城となったとされる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに伴い、常陸国を知行として安堵するよう任された太田城の佐竹義宣により水戸城の江戸氏が滅ぼされ、その際に小幡城も落城した。慶長7年(1602年)に佐竹氏が秋田に移封されるまで小幡は佐竹氏の直轄地であった。


空堀は堀底道と呼ばれ、深さのある堀が複雑に絡み合っていて、これが小幡城が茨城最強の城郭跡と評価される所以である。土塁と空堀がほぼ当時のまま残っている貴重な城址で、実際の攻城さながらの雰囲気を味わいながら本丸へ向かうことができる。
この日は城址の整備工事を行なっており、伐採や看板の設置などをボランティアと思われる人たちと行なっている最中にお邪魔してしまった。その代わり、今後は綺麗に整備された姿で城郭を楽しむことができるようになるかもしれない。


再び街道に戻り、再び国道6号に沿って進む。かつてこのあたりには桜の巨木があり、水戸光圀が「美しさは千貫の価値がある」と評したことから千貫桜と呼ばれていた。千貫は250両に相当するが、要するに非常に高価なものと同等の価値があるということだ。
光圀の死後、桜は枯れてしまったが、徳川斉昭が光圀を偲んで、ヤマザクラの並木を植樹している。
その並木も枯れ、現在の桜並木は昭和40年頃に植樹されたものである。明治31年(1898年)に建てられた「千貫櫻碑」の揮毫は徳川篤敬(水戸徳川家第12代当主)によるもの。


隣の「千貫桜歌碑」は平成14年(2002年)建立で、小野春江氏によるもの。


小幡の集落を抜け、右手に見えるのが小幡北山埴輪作成遺跡。埴輪の作成場跡地としては日本最大のもので、国指定史跡となっている。
昭和28年(1953年)の開墾時に大量の埴輪が発見され存在が知られるようになったが、その後は詳細な調査を行わないままとなっていた。昭和62年(1987年)に少し離れた場所で偶然埴輪が出土し、想定よりも広いエリアに及ぶことから3期に渡る本格的な調査を行った。その結果、遺跡は8ヘクタールもの広さに及び、埴輪窯59基、工房跡8軒、年度採掘抗2箇所などが発見され、埴輪窯の数は国内最多の規模である。6世紀中頃から7世紀前半の遺跡と考えられ、現在では見学用の通路が整備されている。


県信奥谷グラウンド前あたりから国道沿いの脇道を歩く。墓地の前には昭和35年(1960年)銘の交通安全地蔵が鎮座していた。備えられている花は真新しい。


地蔵の先の交差点で国道6号沿いの道からぐっと離れ、旧奥谷村の村域に入る。奥谷坂上交差点から南に伸びる道は、秋葉、紅葉を経由し、倉数で堅倉から延方に向かう道と合流する古道である。
村域の入り口に御霊神社がある。由緒はよくわからないが、万治年間(1658〜1661年)に改修を行い、現在に至っている。


涸沼川を高橋で渡り、小鶴交差点で旧道へと入ると、間の宿としても機能していた小鶴の集落となる。
一際目を惹くレトロな外観の建物は、駄菓子・雑貨を扱う「こどもや」。開業は昭和30年代で、建物は昭和初期のものだという。残念なことに、2019年の8月末で閉店となってしまった。


如意輪寺に立ち寄る。永享年間に中興されたと伝わり、寛文年間に移転するまでは西に1km離れた場所に位置していたという。
本尊の如意輪観音は元禄3年(1690年)に徳川光圀により寄進されたと伝わり、小鶴を水戸藩の入り口として重要視していたことが推察される。


長岡橋で涸沼前川を渡り、水戸街道最後の宿場となる長岡宿に入る。ここから水戸城下まで10kmも無いが、本陣・脇本陣・問屋が置かれたフル武装の宿場であった。
宿場の中心には高岡神社が鎮座していた。長徳元年(995年)に酒列磯前神社より分祀し創建したもの。かつては神宮寺を持っており、後に正法寺として分離するが、現在では廃寺となっている。


庄屋を営み、脇本陣・問屋も務めた木村家住宅が残されている。母屋は安政4年(1857年)の大火後に再建されたもので、茅葺屋根が残っている。平成に入り、本格的な保存修理がなされたため、見た目はかなり綺麗な状態である。


みくらやという衣料品店がある場所が、本陣跡もしくは旅籠「中夷」の跡地と言われている。


長岡宿を抜けてしばらくすると、道端に馬頭観音碑が2基置かれていた。左の新しい方は昭和10年(1935年)の銘が入っている。


北関東自動車道の茨城町東ICを越え、この旅最後の市町村・水戸市へのアタックを開始する。

2019/10/12

【歩き旅】水戸街道 Day6 その② 〜片倉から小幡へ〜



街道は大きく右に曲がって片倉宿へ。片倉宿は本陣を持たない小規模な宿場であったが、岩間村(現:笠間市下郷)へと伸びる岩間道の分岐点でもあった。


宿内にはいくつか旧家が残っており、往時の雰囲気を忍ばせる。加藤家には「復旧門」と呼ばれる門がある。この門は水戸藩士・加藤伊衛門がこの地で郷士に着任した際に建てられたもの。元治元年(1864年)に天狗党の焼き討ちに遭い、母屋と門を焼失したが、残った柱二本を使って再建した。そのため、柱の上部には当時の焼け跡が残っているという。


街道が90度折れ曲がるあたりまでが宿場であったが、その場所に「かと家」という建物がある。道の「角」にあるから「かと家」なのだが、少なくとも江戸時代より続く旅籠で、建物自体も古きものだという。しかし建築業者の工事不良で、内部に立ち入ることはできなくなっており、現在では少し離れた場所で旅館業を営んでいる。


旧堅倉村々社の貴布禰神社に立ち寄る。創建の詳細は解っていないが、名前のとおり京都・貴船神社より分霊を勧請して創建した神社。平成の社殿改築に合わせて、境内社であった金刀比羅神社を合祀している。この神社は鎌倉時代に金刀比羅神社から奥州に分霊を持ち帰る際、休憩に立ち寄った場所に作ったとも言われている。


巴川を渡り、小岩戸の集落入り口には石船神社がある。全国でもあまり例のない鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)を祀る神社である。
この神様は「石船」の名が表すように、日本神話では神様の乗り物として仕えたことから、交通関連の祈願に祀られることが多いようだ。
この石船神社は、永正元年(1504年)に常陸国石船神社(おそらく茨城県城里町にある式内社・石船神社)より「御矢」を奉ったことに始まるという。


境内には子安観音などの石仏が集められている。立派な道祖神も並べられている。


小岩戸交差点で国道6号を横切る。国道沿いに地蔵が三体並んでいた。


交差点から300m程離れた場所にも馬頭観音、子安観音などの石仏がまとめられている。ここは西郷地の集落の入り口にあたる場所である。


橋場美方面へ向かう道を挟んで反対側には二十三夜供養塔(おそらく2基)と道祖神が置かれていた。こういった供養塔は集落の端に置かれていることが多く、集落の結界や守り神的な意味合いをもたせているのだろう。


西郷地の集落手前にも石船神社がある。創建年代は不明だが、式外社の「飛護念神社」を合祀している神社で、徳川光圀によって発見されたと言われている。
徳川光圀が鷹狩りで道に迷った際に、先後稲荷の神である白狐が先導してくれた。丁度その頃、先述の「飛護念神社」を発見したが衰退していたため、元禄9年(1696年)水戸藩にあった先後稲荷を飛護念神社に引き、社殿を造営したという逸話が残っている。
その後、大正3年(1914年)に石上神社を合祀し、なぜか「石船神社」と名乗ることとなる。


グーグルマップでは西郷地の集落内に子安観音堂があるとされる。その場所には堂というよりは祠のようなものが置かれており、子安観音が3体も鎮座していた。裏手に空き地があるので、元々はここにお堂があったのだろうか。


山中橋で黒川を渡る。その先で右手に曲がると嘉永5年(1852年)建立の石碑と案内板が置かれている。ここはかつて西郷地小学校があった場所である。明治10年(1877年)にここにあった広諦寺の本堂内で開校した小学校であるが、明治19年(1886年)に堅倉小学校に併合され、廃校となった。広諦寺も明治末期に火災に遭い、消失してしまった。


跡地の奥に立っているのは山中薬師本堂と呼ばれる建造物である。堂内にはかつて広諦寺の山門に置かれていた仁王像が火災を逃れて安置されている。かつてはお堂の近くに池があり、その池で目を洗うと眼病が治るとされた。


坂を登ると茨城町に入る。小幡の集落の端には愛宕町女中講によって建立された子安観音が置かれている。
ここまでの街道沿いでも、至る所に子供を抱えた姿の石仏・子安観音が置かれていたが、これは安産や子育て祈願をしたもので、女人講(女中講・子安講とも)という女性を中心とした組織によって設置されたもののようだ。
江戸時代には流産や子供の病気も多く、その供養や祈願のための講だと考えられる。


小幡宿は水戸藩の要望により藩領となった宿場。問屋場が一軒設けられているだけで、本陣・脇本陣は設けられなかった小規模な宿場であった。


小幡宿の入り口には愛宕神社がある。鬱蒼とした林の中に参道があり、その奥にひっそりと本殿が佇む。
この神社には近くの小幡城主によって勝軍地蔵が祀られ、奉納の際に領民にお囃子をさせたことから生まれた「小幡ひょっとこばやし」が町の無形文化財に指定されている。


法円寺の山門の丸瓦には葵の紋が刻まれている。この寺院は水戸藩が参勤交代の時に宿として使用しており、天台宗水戸十ヶ寺の一つに数えられていた古刹である。


ここで少し街道を離れ、マニアの間で茨城県で最も見所のある城跡と評される「小幡城址」を見にいく。