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2018/01/20

【歩き旅】大山街道 Day5 その① 〜長津田宿をゆく〜



この日は青葉台よりスタート。今でこそおしゃれタウンとして名高い青葉台であるが、かつては恩田という地名であった(武蔵国都筑郡恩田村→神奈川県都筑郡田奈村大字恩田→横浜市港北区恩田町)。昭和42年(1967年)の東急田園都市線の青葉台駅の開業と共に、地名も青葉台と改称し駅周辺の開発を進めていった。そのため、青葉台周辺から長津田にかけては、都市開発と道路拡張の影響で旧道が断続的に失われている。

街道は横浜市青葉区田奈町へと差し掛かる。寿光院の墓地内に石塔坂の宝篋印塔と呼ばれるものがあるというが、当時の私は宝篋印塔がどんなものなのかよく分かっておらず見つけることができなかった。その先には道標を兼ねた供養塔があった。文化5年(1808年)の建立で、「上り 江戸道 下り 大山道」と刻まれている。


再び国道246号に合流した街道は恩田大橋で恩田川を渡り、片町交差点で再び旧道へと入っていく。旧大山街道の案内標が道筋を教えてくれる。


旧道に入って少しするとJR横浜線の青山ガードを潜る。しばらく細い道を進んでいくが、大きな道に合流したところに片町地蔵堂がある。この場所は大山街道と神奈川道(鎌倉道・重忠道とも呼ばれる)の分岐点に位置する。地蔵の台座には「向テ右ヨリかな川 みそノ口」「南つる間 東江戸道」と刻まれているという。


ここで合流した道沿いに長津田宿は伸びていた。宿駅に制定されたのは江戸初期頃とされており、江戸から歩きはじめて初日の宿を取る場所としてよく使われていた。往時は50件ほどの旅籠が連なる場所であったが、昭和28年(1953年)の大火によりその町並みは失われてしまった。
道路整備により石仏がまとめられており、その一角には下宿常夜灯が残されている。この常夜灯は文化14年(1817年)に長津田宿の大山講中によって建立されたものである。


真っすぐ伸びる街道を進むと、「丸屋」など昔の屋号を残す商店もいくつかある。そんななか右手に伸びる細い道を進むと扉が行く手を阻む「随流院」がある。田奈幼稚園を併設するこの寺院は、かつての山号を「長蔦山(ながつたさん)」と言い、これが「長津田」の語源になっているとも言われている。


街道が長津田駅へ向う道と交差する道を南に進むと立派な山門と仁王像に迎えられる。長津田を治めていた岡野家の菩提寺でもある大林寺である。元亀元年(1570年)の創建とされ、平成20年(2008年)に山門や客殿、庫裡などを改装しているため整然とした佇まいである。先程訪れた随流院は末寺であった。境内には岡野家の歴代墓所や、初代引田天功の墓がある。


大林寺の境内外側に延命地蔵がある。その脇には嘉元元年(1303年)の緑泥岩板碑がある。元々近くにあった東光寺の寺跡にあったものを明治34年(1901年)に譲り受けたものである。大乗仏教の経典の一つである「観無量寿経」の一節が刻まれており、板碑として横浜市内最大のものである。


少し寄り道。駅前通りを街道から離れるように進むと、最近関東地方でも猛威を奮っているコメダ珈琲が見えてくる。その手前の細い道を進むと、エクセルコートというマンションの一角に「お七稲荷」と呼ばれる小さな稲荷神社がある。

天和3年(1683年)、八百屋お七が火あぶりの刑に処された。井原西鶴「好色五人女」から坂本冬美の「夜桜お七」まで数々の作品に登場するお七であるが、その生涯は恋の衝動に放火を行い自身が火あぶりで処されるという悲恋のストーリーということもあり、多くの人の心を掴んだ。
事件を担当したのは盗賊追捕役の中山勘解由。事件当時、第三代長津田領主岡野房勝も盗賊追捕役であり、房勝の孫の妻の父が勘解由であったことから、岡野家にはお七の祟りがあるとされていた。それを鎮めるために設けられたのがこの稲荷神社というわけである。


街道沿いに戻り、長津田宿をゆく。道がゆるやかに左カーブしているところに登り坂がある。長津田の鎮守・大石神社の女坂である。


この女坂を登る途中に長津田宿上宿常夜灯がある。天保14年(1843年)に長津田宿の秋葉山講中によって建立されたもの。大正時代の始めまでは講中で毎日火を灯していたという。小高い位置にあるため、街道からもよく見えたであろう。


大石神社は在原業平が死後大きな石になったものを御神体として祀っているという珍しい謂れのある神社である。六歌仙の一人・在原業平は百人一首では「ちはやぶる〜」の句で有名であるが、なぜこの地に業平ゆかりの神社があるかはよく解らなかった。
またかつてこの石は武蔵国と相模国の国境に位置したが、両国が自分の国に持ってこようと動かしたが武蔵国の方にしか動かなかったため、現在地で祀ったという伝説も残る。


大石神社の裏手には「皇太子殿下御野立之跡」碑がある。大正10年(1921年)に行われた陸軍特別大演習で当時の皇太子(昭和天皇)がこの地から総監したことを記念した碑である。演習は10万人の兵士を東軍と西軍に分け、4日間に及んだ大規模なものだった。その全容を見るために丁度いい高さと位置だったためこの地が選ばれたという。


先程の碑の隣には慰霊塔がある。大演習以降、長津田から出兵する兵士はこの地で出兵式を行い長津田駅から戦地へ向かったという。天皇の加護を受けたかったのだろう。そういった経緯でこの地に慰霊塔が建てられた。


長津田小学校の脇の道を進んでいく。確か大山街道を歩き始めて初めての未舗装路なような気がする。僅かな区間であったが、かつての街道の雰囲気を感じられる貴重な区間であった。

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