【歩き旅】大山街道 Day7 その② ~矢倉沢往還と分かれ道灌と再会する~
糟屋宿を抜けて、丸山城址に立ち寄る。丸山城は鎌倉時代の築城とされており、糟屋左衛門尉有季の居館跡とされている場所。扇谷上杉定正の居館・通称「糟屋館」 がこの地にあったという説もある。糟屋館は前回のエントリーで紹介した太田道灌暗殺の地であるが、決定的な証拠は出土していないようである。
現在は丸山城址公園として整備されているが、土塁などの遺構がしっかりと残っている。かつての城域は高部屋神社あたりまで広がっていたとも言われており、かなりの規模の城郭だったようだ。
街道に戻り下糟屋の交差点で国道246号を突っ切る。その先に道祖神と五輪塔がまとめられている。メインの道祖神には嘉永3年(1850年)の銘が入っているという。
この先、高橋商店の脇の林の中に伊勢原市最古の庚申等があるとのことだが見逃してしまった。
東海大学伊勢原キャンパス・大学病院の脇の細い道を進み、開けた場所に出たところに咳止地蔵尊の祠がある。かつてこの付近で渋田川に木橋が架かっており、増水時に川を堰き止めることから「せきど橋」と呼ばれていた。これがいつしか「咳止め」に転訛して、地蔵尊が咳止めにご利益があると言われるようになったという。
旧道は県道63号の開通に寸断されてしまった。市米橋交差点で写真右手に曲がり少しいけば再び旧道へと入るのだが、この交差点は矢倉沢往還との分岐点となる。つまり写真の奥へ直進するのが沼津へと続く矢倉沢往還、右手へ折れるのが大山街道となる。
矢倉沢往還と分かれ、市米橋バス停を過ぎた辺りで再び旧道へ入る。細い道を歩いていると「上糟屋郷絵図 文政八年(1825)秋図文」と書かれた絵図がある。2014年に作成されたようで、近年でも地元に街道が親しまれているのがわかる。
峰岸団地入口交差点を越え道なりに住宅街を進んでいくと「三軒茶屋」と書かれた家の模型のようなものが道端に置いてある。説明によると、このあたりは大山街道青山道、大山街道戸田道(戸田の渡しからの道)、田村通り大山道から分かれた日向道(日向薬師へ向かう道)、津久井道などが交わる地で、三軒の茶屋が旅人の喉と足を癒やしていたのだという。
道は東名高速道路に突き当たるので、近くのトンネルで向こう側へ抜けるとそこに石仏がある。この旅何回目の双体道祖神+五輪塔のセットだが、「右 いゝやまみち 七五三引村 左 ひなたみち 明和九」と刻まれている道標を兼ねた石仏である。
飯山道は坂東三十三観音霊場第6番札所である長谷寺・通称「飯山観音」への道を示している。ちなみに「七五三引」と書いて「しめひき(=〆引)」と読む。
用水路沿いの狭い道を進んでいく。この用水路は「千石堰用水」と呼ばれる。鈴川から取水し、先程の咳止地蔵近くで渋田川へ流れる水路で、流域の灌漑用水として利用されてきた。元々は上杉館の空堀に水を引くために造られたとされ、道灌濠とも呼ばれる。
用水路に沿って進むと三所石橋造立供養塔があった。文政3年(1820年)に建立された供養塔で、千石堰用水に架かる3つの石橋(台久保の石橋、石倉の石橋、川上の石橋)を供養するために近くの洞昌院の住職と地元の村人によって造られたもの。この場所は台久保の石橋があった場所に相当するという。
供養塔の隣には木製の道標がある。だいぶ立派な道標である。
街道から少しはずれて上粕屋・台久保・山王原周辺を散策する。ここに2つ目の太田道灌の墓がある。
鬱蒼とした林の中にあるのがこちらの墓。下糟屋にあったのが首塚でこちらが胴塚とされている。宝篋印塔と松の切り株が供えられている。道灌暗殺後、遺体は洞昌院の裏手で荼毘に付したと言われている。洞昌院は上杉憲実の弟・道悦和尚のために道灌が建てた寺と伝えられている。
道灌暗殺の際、道灌の家臣七人が追手を受けて討死したと言われている。彼らを祀っているのが道灌の墓にほど近い場所にある七人塚である。元は上粕屋神社の境内にあったが、そのうちの一つをこの地に移設したもの。実は家臣は9人いて、生き残った家臣の子孫と言われる家系が代々この七人塚を世話しているという。
もう少しこの周辺をみてみよう。
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