【歩き旅】水戸街道 Day5 その① 〜土浦市内の宿場コンプリート〜
土浦城下に栄えた土浦宿は、土浦城の南東を囲むように広がっている。東海道の掛川宿(掛川城)、岡崎宿(岡崎城)などの城下町と同様に、防衛の目的で桝形を繰り返した複雑な線形をしている。また江戸時代以前から霞ヶ浦を臨む一帯の地域(茨城郡大津郷)は、霞ヶ浦水運の要衝としても栄えていた。
城北町(旧横町)には月読神社が鎮座する。月読命(=勢至菩薩)を祀る神社であるが、土浦周辺には月読に関する寺社が点在している。江戸時代に流行を見せた月待信仰のなかでも、勢至菩薩を祀る二十三夜講が周辺で流行していたことを物語っている。
2015年には江戸時代の書家・田中玉峰の揮毫とみられる幟旗が見つかっている。
土浦城の北側出口が北門である。慶長8年(1603年)に門の前に半円形の馬出が設置された。馬出とは、門の外側に防衛目的で設けられた空間のことである。貞享3年(1686年)に、この馬出の横にさらに馬出が設置されたため、全国的にも珍しいS字型の馬出となった。
土浦城下を抜けると、緩やかな坂道を登ることになる。その坂のはじまりで桜川土浦自転車道(つくばりんりんロード)を横切る。これは昭和62年(1987年)に廃止された旧筑波鉄道の廃線跡を利用したもので、写真に写るコンクリートの台は旧「新土浦駅」のホーム跡である。
右手には善応寺。室町時代の創建とされる寺院で、観音堂は土浦城主土屋数直が寛文10年(1670年)に寄進したもの。土浦城の鬼門の方角に位置することから、鬼門避けとしての意味があった。現在の観音堂は文化11年(1811年)に再建されたもので、市指定文化財に指定されている。
善応寺前の道沿いにある井戸は「照井の井戸」と呼ばれている。300年以上に渡って沸き続けている湧水で、寛文元年(1661年)に第二代土浦藩主・朽木稙昌によって井戸が整備された。これによって水戸街道を行き来する人々の喉を潤すと共に、名水の知名度が上がっていった。寛文10年(1670年)には、土屋数直によって井戸から土浦城内までの木樋による水路が引かれた。これが土浦での上水道の起こりとされている。
真鍋坂を上がり国道125号に合流したところに土浦第一高校がある。中には旧土浦中学校本館が現役保存されているが今回は見学できなかった。明治37年(1904年)竣工の建物は、ゴシック様式を取り入れるなど当時の学校建築としても珍しい作りをしている。
若松町交差点の一つ前の信号を右に折れ旧道へ入ると、道の両側に盛り土と共に松並木が整備されている。
かつては水戸街道にも各地に松並木が設けられたが、戦時中の松油採取や老朽化による伐採で数を減らし、旧水戸街道ではここ板谷が唯一残るのみとなってしまった。
松並木の途中に板谷の一里塚がある。日本橋から布川街道経由で20里の位置にあたるものだという。手は入っているが、往時の姿で街道の両脇に残っているのは珍しい。
松並木が終わりに差し掛かったあたりに、「電燈建設記念」と刻まれた昭和4年(1929年)の道標がある。近代的な指差し道標で、「石岡経水戸約四四粁 土浦経東京約七六粁」側面には「従是本村小学校役場経筑波道」とあることから、ここから筑波山方面への道が伸びていたことがわかる。
国道6号を陸橋で越えた先に、中貫宿がある。前の土浦宿、次の稲吉宿までの距離が短いこともあり、下りの継立業務のみを行う片継ぎの宿であった。
宿場に入ってすぐ右手に入ると鹿島八坂神社がある。鳥居に切れてしまっている注連縄がかけられているが、これは蛇を模した注連縄で毎年旧暦9月19日の大祭の際に飾られるのだという。
大きな門が見える旧家が中貫宿の本陣だった建物。元治元年(1864年)に天狗党の焼き討ちで消失した直後に再建されたものだという。中貫本陣は大名が休憩するための小休本陣だったという。水戸街道では3軒しか残っていない貴重な本陣建築の一つである。
小さい宿場を抜けるあたりに明治38年(1905年)建立の馬頭観音碑が建っている。継立で使用していた馬の供養を行うものだろうか。
道の反対側の曲がり角には「無縁墓地の跡」碑があった。無縁仏がどのような人達だったかは窺い知れないが、旅人や飯盛女の類が多かったのだろうか。
中貫十字路手前の電柱に石碑がくくりつけられていた。「一三〇米」と刻まれているように見えるが、これはかつて牛久市とつくば市の堺で見た石碑と同一のもののようだが、やはり詳細は不明。
大正4年(1915年)の道標が草に埋もれていた。「向テ左上稲吉佐谷ヲ経テ柿岡方面」「右 下稲吉ヲ経テ石岡ニ至ル約三里 左 真鍋ヲ経テ土浦ニ至ル約一里」と刻まれているという。
同様の石碑はこれまでも見かけてきたので改めて調べてみると、大正天皇の御大典記念に建立されたものであることがわかった。
国道6号に合流し、かすみがうら市へと入る。
その先の厳島神社に立ち寄る。かつては境内裏に弁天池があり、これがこの辺りの地名である「清水」の由来になったという。小さい神社であるが本殿の脇障子や象鼻、水引虹梁や妻飾が見事な彫刻となっている。
中貫宿を出て再び国道6号と合流する。しばらく国道沿いに歩くと、左手のこんもりとした土のところに「下稲吉一里塚」の標識が立っている。説明は特になく、標識が刺さる盛り土が古くからの塚である可能性は低そうである。
この先で旧道に入り、稲吉宿へとむかう。
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