気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

©こけ
Powered by Blogger.

2024/10/09

【歩き旅】北国街道 Day6 その④



小野沢信号から左に入り、小野沢集落へ。融雪パイプの赤茶けた道路が新潟感を感じさせる。


集落内には車道と民家の間にところどころ水路がオープンになっている箇所がある。馬の水飲み場跡かとも思ったが、洗濯や炊事などの用途で利用されていたものだろうか。


独特な屋根の興善寺。元々は高田にある瑞泉寺の末寺であったが、江戸時代には関山神社の別当である宝蔵院の配下にあり、社務などにあたっていた。約1200年前に描かれたチベット曼荼羅と、約1700年前に描かれた中国の曼荼羅が寺宝となっているが、この寺に安置されている経緯は不明だという。


小野沢川に向かって道は下っていくが、途中に大日如来が祀られた祠があった。上半身だけの「生け込み式」と呼ばれるスタイルの石仏。周辺にあったであろう馬頭観音が大日如来を取り囲んでいた。


道は大きく左に弧を描くように進む。民家の傍らに馬頭観音が置かれている。


泉地蔵尊の祠があった。この手前で道は右に曲がり、関山宿へと入っていく。


諏訪大神の扁額が掲げられた鳥居とその先に祠があった。


関山宿は古くからの山岳修験道の霊場である「妙高山」を遥拝する里宮である「関山三社権現(現在の関山神社)」の門前町として栄えた。街道を挟んで東側が高田藩領、西側が関山権現社領となっており、宿役は高田藩領側が務め、関山権現側は免除されていた。


関山神社は和銅元年(708年)に裸行上人によって創建したと伝わる。別当寺として隣接する宝蔵院とともに、天正10年(1582年)の森長可軍勢による侵攻では社殿や堂宇が消失し一時衰退するものの、江戸時代に入り再興し、宝蔵院は上野寛永寺の末寺となった。妙高五山(妙高山、神奈山、茶臼岳、火打山、不動山)を朱印地として管理し、許可なく入山することを禁止していた。仏教色の強い神社であったが、明治の神仏分離政策により宝蔵院は廃止され、社領も現境内を除いて国に没収された。


参道入口には大正時代に設置された関山村道路元標が置かれている。


北沢川を越え、宿場を抜けると左手に北沢一里塚が見えてくる。西塚のみだが、塚の形はきれいに残っている。かつて塚に植えられていた木は不明で、現在植えられている木は後年に植えられたものだという。


一里塚のすぐ先、国道を横切るところに「北沢の一本松」があった。上部だけに枝がある大木が聳えているはずだったが、肝心の上部が伐採されてしまっていた(ストリートビューを見る限り、現在では跡形も無くなっている)。ここを境に妙高市から上越市に入る。


稲荷山集落に入っていくと、道路脇に杉並木が伸びている。「元ギャル多し スピード落とせ」の標語は味がある。


福崎集落に入っていくと覚願寺がある。大永4年(1524年)開創の寺院。


入口のところに、岩の中に彫りが比較的はっきりした馬頭観音像があった。


続いて片貝集落に入っていく。比較的新しそうな路傍の祠にはお地蔵様が祀られている。


少し先に片貝縄文資料館の入口があった。北沢一里塚の北側(泉縄文公園)で発見された県指定史跡「籠峰遺跡」をはじめ、この付近では縄文遺跡が多数見つかっており、それらの出土品などを展示している。平成17年(2005年)に廃校となった片貝小学校の校舎を再利用している。


片貝集会所の前に嘉永3年(1850年)建立の筆塚がある。側面には「龍と龍 影やかげろう 塚の上 鱗ニ」と刻まれているという。伊勢国津藩から流浪の旅に出ていた「公田権右衛門・和五郎親子」がこの地で寺子屋を開き村人に文字や詩歌を教えたと言われており、その弟子である村民が後年に建立したものだという。

この先片貝橋で片貝川を渡り、市屋集落を抜けていく。

0 コメント:

コメントを投稿