【歩き旅】北国街道 Day6 その③
白田切川沿いに進み、国道18号のガード下をくぐると1895年(明治28年)建立の聖徳太子碑などの石碑がまとまて置かれている。脇にあるのは天明6年(1786年)建立の馬頭観音。道はここから左に大きくカーブし、田切宿に入る。
田切宿はこの先の二又宿との合宿。戦国時代には平城の田切城があった。天正10年(1582年)には織田信長に仕えていた森長可によって田切城が落とされている。「田切」とは急勾配でまっすぐな深い谷を指し、先ほど越えた白田切川、この先越える郷田切川、太田切川など、谷に刻まれた地形の合間を貫くように街道は進んでいく。
江戸時代に北国街道が整備される折に改めて宿場町として整備された。本陣や脇本陣は不明で、問屋は郷戸家が務めたようだが跡地を示すような案内は無い。
宿場を進んでいくと、背の高いハルニレの木が目に飛び込んでくる。木の根元には嘉永6年(1853年)建立の筆塚がある。
郷田切川を渡る手前、「田切古道入口」の案内板があった。短い区間ではあるが往時の姿を留めた古道が残る。
古道に入っていくと水道管・ガス管が川を越えていた。その脇に川を横断するように木が渡されているが、これが丸太橋なのだろうか?体重を乗せると折れそうなので、その周りの石を飛び石に利用してなんとか対岸に渡ることができた。
二俣宿の案内板があった。二俣宿の西に赤倉温泉が文化13年(1816年)に開湯したことによって、温泉場入口の宿場として栄えた。赤倉温泉は田切宿の庄屋・中嶋源八等が高田藩の許可を得て開業。日本唯一の藩営温泉だった。
案内板から先の二俣宿は緩やかに下り坂になっている。
左手に西蓮寺がある。建治2年(1276年)に平家の武将、桃井上総介義衡が親鸞聖人の弟子となり創建したと伝わる。度重なる火災に遭う毎に再建を繰り返し、昭和60年(1985年)には老朽化に伴い改築している。
三角形の池は馬寄場跡。かつては宿場内のすべての馬を洗えるほど大きかったといい、防火の目的もあった。
小二俣川の手前に五輪塔が並んでいた。天正6年(1578年)、上杉謙信亡き後の上杉景勝と上杉景虎の跡目争いである「御館の乱」が勃発。この乱で戦死した者を無名戦士として弔ったものだという。
再び国道18号に合流し、しばらくして右側の旧道に入る。ここにさらに旧道らしき道があるが、廃道となっており途中までしか通行できないようだ。かつては太田切川を「十三曲がり」と呼ばれたつづら折りの道で越える必要があり、北国街道最大の難所として知られた。太田切川を渡る妙高大橋(昭和47年架橋)は平成24年(2012年)より付け替え事業が開始されていて、令和3年(2021年)には西側に新橋の妙高大橋が開通している。
そんな旧妙高大橋が架橋される以前の国道区間を橋を見上げながら進んでいくと、「大田切清水」があった。昭和7年(1932年)の国道工事の際に湧き出したものとされる。
清水は馬頭観音の下から流れ出ている。現在は廃道区間となっている旧北国街道の大田切坂にある水飲み場より移設されたもの。
谷を登り切ると坂口新田の集落に入る。かつては集落内に一里塚もあったようだが明治時代に取り壊されてしまったようだ。坂口新田は慶安元年(1648年)に徳川家光の命を受け、高田藩が助郷村に指定。難所の大田切坂手前の重要な拠点であった。赤い屋根の旧庄屋は代々太田家が務めた。
坂口北交差点で再び国道18号に合流する。だいぶ前から妙高市に入っているが、菜の花と共に改めて「ようこそ」していただいた。
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