気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

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2021/05/07

【歩き旅】山の辺の道 Day2 その③



藤原町の集落に入ると、白山比咩神社の前に出てくる。由緒は明らかではないが、元禄4年(1691年)、寛政4年(1792年)銘の石灯籠が残されている。広々とした境内で小休憩させてもらった。神社の向かいには明治時代に廃寺になった観音寺の後身である藤原観音堂がある。


集落を抜けると何度目かの田園風景。農業用水のような地蔵院川を越えて、田んぼゾーンを抜けると現在では藤原台として整備されている住宅街エリアとなる。古い地図を見ると一帯は旧日本軍の射撃場だったようで、現在でも自衛隊の射場や寮、墓地があるようだ。白毫寺への案内に沿って森の中へと進んでいくと、再び鹿よけの柵がある。


池沿いの未舗装路を抜けると、鹿野園(ろくやおん)の集落へと突入する。大和棟と呼ばれる伝統的な農家建築の家並みが残るのどかな集落である。釈迦が悟りを開いた地「サルナート」を漢字で書くと「鹿野園」と書き、来日したインドの僧がここをサルナートに見立てて鹿野園と名付けたという謂われがある。

集落の北東に八坂神社がある。由緒は不明だが、かつてこの地にあった「梵福寺」の鎮守神であり、江戸時代には神社があったという。明治時代には周囲の神社を合祀しており、現在では6つの社殿が設置されている。


八坂神社の先を切り返すように道を下ると、途中に川にショートカットして降りる道へと道標が案内してくる。手元の地図ではここを降りるように案内されておらず、あまり使われていないような道だったこともあったので、今回は迂回路を利用する。岩井川を橋で渡り、民家の脇を案内に沿って進むと再び獣の侵入防止柵。ただ今回は「鹿」対策のものだった。


柵の出口には「奈良道」の文字。山の辺の道のうち、奈良市虚空蔵町から奈良市高畑町までの区間を「奈良道」として保全・整備しているのだという。


柵から出た通りは三重県名張市を経由して伊勢に至る古道で、「名張街道」や「伊勢街道」とも呼ばれる。奈良市営東山霊苑の入り口にこじんまりと立つ地蔵菩薩。丸彫りで150cmもの高さがあり、鎌倉時代後期の建立なだけあって摩耗は進んでいるものの、その表情やポーズはまだ健在だ。


「歴史の道 奈良市」と書かれた石灯籠の脇から入る道は東山霊苑への道。それだけでなく昭和47年(1972年)に奈良市が「歴史の道」というハイキングコースに指定した道でもあり、この道を上っても白毫寺へ向かうことができる。


少し先の三叉路に赤みがかった石の道標があった。「右 かす可゛九丁 ち可道 大ぶ川」と刻まれている。ここを左に行く道が名張街道(伊勢街道)で、その道から外れるように春日大社・東大寺大仏へ向かってショートカットする道が右となる。今回は道標に従って右に向かう。


次の交差点に祠に収められた「仲良し地蔵尊」があった。ここを右に曲がり緩やかな上り坂を進んでいくと、白毫寺への石段が見えてくる。


100段ほどの石段を登りきると白毫寺の本堂が見えてくる。この地は第38代天智天皇の皇子・志貴皇子の山荘跡と伝わり、皇子の没後に寺院が建立された。鎌倉時代に真言律宗の開祖・叡尊によって再興され、叡尊の弟子・道照が中国から一切経を持ち帰ってからは「一切経寺」とも呼ばれるようになった。本尊は阿弥陀如来だが、かつて閻魔堂に安置されていた閻魔王も有名で、御朱印のイラストにもなっている。

真言律宗は真言宗の流れを汲むことから、明治5年(1872年)に明治の宗派整理の際に真言宗にまとめられた。しかしこれに反発する運動が起こり、明治28年(1895年)には真言宗からの独立を認められたという経緯がある。


境内からは奈良市街が一望できる。寛永年間に興福寺頭塔・喜多院より移植してきたという「五色椿」は奈良三銘椿の一つにも数えられており、関西花の寺第18番にも指定されている。


仲良し地蔵尊のあった交差点に戻り、北進していくと「宅春日神社(やけかすがじんじゃ)」がある。神護景雲2年(768年)、天児屋命が河内の枚岡神社より現在の春日神社へ遷座する際、この地で一時滞在したという伝説がある。かつてこの辺りは、この地を治めていた豪族・大宅氏にちなんだ地名で「大宅郷」と呼ばれていたとされ、これが社名の由来と考えられる。


能登川に向かって少しずつ道を下っていく途中、古めの地蔵が路傍にまとめられていた。この手前の一角に墓石が大量に置かれていたので、廃寺でもあったのだろうか。こういった道端の地蔵にもしっかりと赤い前掛けが施されていて、地元の信心深さを感じられる。

2021/05/02

【歩き旅】山の辺の道 Day2 その②


 
高樋を抜けると高樋青年団が寄贈したレトロな時計台がある。この脇の道を上っていくと紅葉の名所として知られる正暦寺。境内を流れる菩提仙川の水を使って、初めて清酒を作ったとも伝わる地である。今回は正暦寺と逆の方面へ進む。


柳茶屋墓地の入り口に延命地蔵尊がある。江戸時代初期に造立した石仏で、一石の花崗岩から彫り出されて作られている。この辺りの集落はかつて柳茶屋と呼ばれていた。


ここにも大峯山上五拾五度供養塔があった。やはりこの近辺の集落では大峰山信仰が流行していたようだ。


精華学院前の複雑な交差点を抜けると、緩やかな上り坂となる。竹林を抜けると道は下り坂となり、上山村集落へと入っていく。中古車販売店の脇に道標・案内板・万葉歌碑などがあるが、道標はこの道を直進する道を「伝・山の辺の道」としている。ただ、手元の地図はここを右折するルートを取っているので、今回は円照寺へ向かう道を採択する。


分岐点には昭和23年(1948年)建立の道路新設記念碑。今から向かうルートは明治の地図に描かれていないようなので、このときに整備されたものだろうか。


道は田んぼの中を進んでいき、山沿いを進んでいくと池の畔に出てくる。竜王池(大川池)と呼ばれるこの池は、元々円墳の外堀だったものを拡大し、上流の正暦寺方面からの水を集めて農業用溜池として利用するようになったものだという。池の中央には弁財天が祀られている。


岡山稲荷神社の鳥居が山に向かって口を開いており、ここから円照寺へと入っていく。奥がどうなっているか分かりにくく、なかなか勇気の要る登り口となっている。


大師堂への案内があったのでそちらへ向かうと、こじんまりとしたお堂がそこにあった。近くの円照寺との関連は不明とのこと。


大師堂の境内の一角に何十体もの石仏が並んでいる。おそらく西国三十三観音を写したものだが、数えてみると33体以上ある気がする。


鬱蒼とした森の中に整然と整備された寺院が現れる。ここは大和三大門跡の一つにも数えられる尼寺・円照寺。寛永17年(1640年)に後水尾天皇の第一皇女・文智女王が出家し、寛永18年(1641年)には京都・修学院に草庵を建てた。後に後水尾天皇が修学院離宮を建造することとなったため、現地にあった寺院は移転を余儀なくされ、明暦2年(1656年)にここより少し北の崇道天皇陵付近に移転し、「八島御所」と呼ばれた。寛文9年(1669年)には現在地に移転し、「山村御所」と呼ばれるようになり、現在に至る。

一般拝観が行われず、参道の途中までしか立ち入れないため、遠目から建物の姿を眺めるのみとなる。


円照寺の参道を北側へ逸れ山道を進む。少し開けた場所に石仏がまとめられており、中央にあるものは「向山地蔵」と呼ばれる。


さらに先に進むと道はイノシシ避けの防護柵に阻まれる。山奥の街道を歩くときなど、時折このような柵に巡り合うことがある。


貯水池(新池)に沿って道は進み、久々に車道に出てくる。ここには日本書紀から引用された勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ・後の第27代安閑天皇)が春日皇女へ贈った詠歌が設置されている。冒頭の「やしまくに」=「八島国」は8つの島で形成される国、つまり「日本」を表している。


池の前にあるのが崇道天皇陵(八島陵)。第49代天皇・光仁天皇の皇子である早良親王の陵とされる。早良親王は藤原種継暗殺の罪に問われたが、無罪を主張してハンガーストライキを決行し、息絶えてしまう。その後、親王を追及していた桓武天皇の近親者が立て続けに病死したり、疫病や洪水などの災害が重ねて起こったため、親王の怨念によるものではないかいう説が広まってきた。そこで、その怨念を鎮めるため、死後ではあるが早良親王を「崇道天皇」と追称し、墓所を現在地に移送したのがこの陵であると考えられている。


陵の前の道のど真ん中に穴が空いており、なにやらゴツゴツとした岩が埋め込まれているように見えるが、これには伝説がある。早良親王の死の際に9つの石を投げ、その石が落ちた場所に墓を作って欲しいと言い残した。その後9個のうち8個がこの地に落ちているのが発見され、ここに陵を作ることになったという。また、この地は「八島」という地名で、その由来がこの石という説もある。実際には「八島陵前石室古墳」と呼ばれる古墳時代後期造成の横穴式石室の天井石とされる。


八島陵から東に進んだところに、嶋田神社がある。延喜式の式内小社に比定されており、元は現在の八島陵があった場所に崇道天皇社と隣り合って鎮座していたが、明治19年(1886年)に二社を合祀する形で現在地に移設された。本殿は春日大社の本殿を再建した際、古い建物を別の場所に移設する慣例である「春日移し」により、江戸期に春日大社の旧本殿を移設したものとされる。

2021/04/29

【歩き旅】山の辺の道 Day2 その①


 
山の辺の道2日目。石上神宮より北上して平安神宮を目指す。楼門前を東に進み、神宮の奥へと進む道がルートに指定されている。


石上神宮の敷地を抜けると、布留川へ降りていく道がある。ここに掛かるなんの変哲もない橋は「布留の高橋」と呼ばれる。もちろんこの橋は近年架けられたもので、かつての正確な位置は不明だが、万葉集にも詠まれるほどの橋であった。当時の技術としては川底から相当高い位置に掛かっていたようで、珍しいものとされていたのだろう。
また、この橋周辺に住んでいた人が「高橋」姓を名乗り、それが全国に散らばったことから、「高橋」姓のルーツの地とされている。


車道に出てしばらくすると、道は未舗装路へと入っていく。その先に「豊日神社」があった。創建由緒など不明だが、火雷天神を祀る社で、豊日別(とよひわけ)ではない。


未舗装路を抜けると、鬱蒼とした藪へ進む道(豊田山城)と舗装路(東海自然歩道 迂回路)との分岐点に出てくる。手元の地図は迂回路を進むように案内されていたが、よりアドベンチャー感が高そうな藪道へと歩みを進めてみた。季節柄、藪はかなり深く、腰ほどの高さまで草が伸びている箇所もあり、それをかき分けながら進む。この道を選択したことを後悔してきた頃に「豊田山城跡」の案内板があった。

豊田山城は室町時代中期に布留郷で勢力を振るっていた豊田氏の居城で、明応7年(1498年)頃に落城したと考えられている。現在でも土塁や空堀が残っているというが、今回は立ち寄らなかった。


山の辺の道沿いには「橘(たちばな)」が植えてある箇所が点在している。橘は古くから日本に自生していた柑橘類だが、現在では数も少なくなっているが、なぜ山の辺の道沿いに植えてあるかというと『古事記』や『日本書紀』に縁があるからである。『日本書紀』では、垂仁天皇の部下・田道間守(たじまもり)が天皇の命により「非時香果(ときじくのかくのみ)」を常世の国に探しにいくが、持ち帰ったときには天皇が崩御しており嘆き悲しむというエピソードがある。この「非時香果」が「橘」であると考えられている。


草に埋もれて「狂心の渠(たぶれごごろのみぞ)」についての説明板があった。第37代斉明天皇は宮殿の東山に石垣を築くため、飛鳥と石上山(現在の豊田山)を結ぶ運河を建設し、天理砂岩と呼ばれる石を切り出して運河で輸送した。運河の建設に延べ3万人、石垣の建設に7万人を動員したものの、石垣は崩れ事業は失敗に終わった。このことから、当時の人々に「狂心の渠」として避難された。


道は竹藪へと突入する。


竹藪の中に石上大塚古墳がある。古墳時代後期・6世紀後半の増築と推定されている前方後円墳で、全長107mというサイズはこの時代の古墳の中ではかなりの規模だという。後方部の埋葬施設が破壊されており、そのおかげと言っていいのかわからないが、露呈した石室内部の様子の見ることができる。


石上低区配水池の貯水タンクの間を抜け、名阪国道の下をトンネルで抜ける。鉄塔の脇の道を上がっていくと白川ダムがある。元は昭和初期に農業用の「白川溜池」として作られたものだったが、それを嵩上げして1995年(平成7年)に治水ダムとして再整備された。現在ではへらぶな釣りで有名とのこと。ダム沿いの道を進んでいき、当時ハマっていたダムカードもしっかり収集した。


白川ダムを沿いを抜けたところは丁字路になっている。手元の地図では道を下っていく方の道を推奨しているが、路傍の道標は道を上るほうを指し示している。下ってから上るか、上ってから下るかの違いではあるが、今回は地図に従って下り坂をチョイスした。

天理市から奈良市に突入する。両方のルートの合流地点となる場所には溜池のようなものがあり、その脇に文政4年(1821年)建立の道標が置かれていた。「右 いが いせ 左 こくうぞう寺 道」と刻まれているようで、五ヶ谷街道を利用して伊勢神宮へ向かう際に、虚空蔵寺(弘仁寺)を経由する参拝者も多かったのだろうと推察できる。


道標の脇の道を入ればすぐに弘仁寺が現れる。弘仁5年(814年)空海により創建されたと伝わり、虚空蔵菩薩を空海自ら彫り、それを本尊としたという。元亀3年(1572年)には松永久秀により伽藍の大部分が消失したが、寛永6年(1629年)に再建された。現在では「高樋の虚空蔵さん」の通称で親しまれ、十三詣りが有名となっている。


弘仁寺の奥の院と言われる不動堂があり、弘法大師の作と伝わる不動尊像が鎮座している。弘仁寺がある虚空蔵山は修験道の信仰対象であったといい、その関係で設けられたものなのだろうか。山の辺の道は境内を抜け、東門より出る。


県道187号を横切り、五ヶ谷街道と伝わる道に合流する。五ヶ谷街道は大和郡山市外川の富雄街道から奈良市帯解で上街道(初瀬街道)を横切り、五ヶ谷を経由し、宇陀市三本松で青越伊勢街道と合流するまでの道筋を指すことが多い。

五ヶ谷街道を北進していくと、道中に「山上 大峯 八拾八度供養」と刻まれた石碑があった。奈良県南部の天川村にある大峰山(山上ヶ岳)は、日本の修験道発祥の地とされ、現在でも山上ヶ岳周辺は女人禁制が敷かれている。関西など一部地域では修行に行かないと成人として認めないという通過儀礼もあったようで、そういった修行を八拾八度実施したことを記念した碑なのであろう。


駐車場に「奈良高樋」と刻まれた碑。ここより手前が高樋集落であった。

2021/04/11

【歩き旅】山の辺の道 Day1 その③


 
柿本人麻呂句碑を越えると、少し上り坂となる。その途中に数多くの石仏が置かれていた。写真上段にある一際大きい石仏は、鎌倉時代に作成されたものだという。この裏手に公衆トイレと中山寺跡がある。


坂を登りきると遊具が併設された広場があるが、ここは大和(おおやまと)神社御旅所。大和神社は日本最古とも言われる神社で、遣唐使もこの神社で祈願してから旅立ったという。例祭である「ちゃんちゃん祭り」では、ここから約2km西にある本殿からこの御旅所までを往復する渡御が催される。
広場の一角には歯定神社がある。医療の神・少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られていることから「歯の神」として崇められている。


道は念仏寺にぶつかる。天平17年(745年)行基僧正により開創したと伝わり、15世紀頃までは旧中山寺の一坊であったという。本尊の阿弥陀如来は足首を見せている珍しい作りとなっている。


門前には目印にもなっている、ずんぐりむっくりな一休像。右折して細い道へと進んでいく。


再び住宅地の合間を進み、左手に五社神社が現れる。創建由緒は不明だが、かつては五社の森という広大な敷地を有していたという。明治の合祀令により先程の歯定神社と合祀され、昭和期に復社されたものだという。名前に反して、境内には武甕槌命、経津主命、天児屋命、比売神の春日四神が祀られている。


萱生の集落に差し掛かるところに、嘉永元年(1848年)建立の大神宮常夜燈と猿田彦大神碑が置かれていた。萱生は大和神社の氏子にも数えられるが、例祭・ちゃんちゃん祭りを先導するのが猿田彦大神であり、それに関連してこの碑が置かれているのだろうか。


木造の古い家並みの合間を縫うと、池のような場所に出てくる。この池は西山塚古墳の環濠である。西山塚古墳は6世紀前半に築造されたと考えられている前方後円墳で、第26代継体天皇皇后の手白香皇女の真稜として有力視されている。


集落を抜けて再びの田園風景。道中の地蔵に説明板があった。村人が池堀りをしていると偶然この地蔵を発見。お寺へ移動しようとすると、村人の足腰に痛みが。この場所で祀ったところ痛みが消えたことから、「腰痛治しのお地蔵さん」として地元で親しまれるようになったという。


乙木集落を縦断したところに夜都伎(やつぎ)神社がある。かつて乙木には春日神社と夜都伎神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内集落の十二神社の三間塚池と交換し、春日神社1社とした後、名前を夜都伎神社に変更した経緯がある。そのため、祭神は先程の五社神社と同じく春日四神となっている。春日大社から古くなった社殿や鳥居を60年ごとに下賜される伝統があり、現在の本殿は明治39年(1906年)に春日大社から移築されたものである。
今回は参拝せず、神社がある宮山を迂回するように進む。


神社を迂回している途中にだいぶ摩耗している地蔵があった。由緒はわからなかったが、調べてみると乙木・園原・杣之内集落の境界がここだった。


道は徐々に山に近づいていき、白山神社の脇からは石畳の山道へと突入する。少し登ると今度は土道の下りとなる。果樹園と竹林の脇を抜けたところに謎の高台があり、ここに内山永久寺跡の案内板と休憩スペースがある。
さらにその先にあった説明板によると、内山永久寺は永久年間(1113〜1117年)に建立された寺院。石上神宮の神宮寺として広大な敷地を有する寺院だったが、次第に勢力は衰え、廃仏毀釈により廃寺となった今では、浄土式庭園の跡である池が残るのみとなっている。写真の石碑に刻まれている「萱御所跡」とは、後醍醐天皇が幽閉されていた花山院を抜け出した際、一時的に身を潜めていたことによるという。


木堂集落を抜けると、道標は森の中へと案内していくが、この森は石上神宮外苑公園の一角。右手に会員制の釣り堀を見ながら進んでいくと、整備された境内へと辿り着く。ここが『日本書紀』に伊勢神宮と並んで記載された最古の神宮・石上神宮である。
御神体として神剣韴霊(神武天皇が高倉下から授けられた剣)、天璽十種瑞宝(鎮魂の儀式に利用する神宝)、布都斯魂剣(須佐之男命がヤマタノオロチを倒す際に使用したとされる剣)が祀られており、明治時代まで拝殿の奥の禁足地に埋められていた。
第72代白河天皇が永保元年(1081年)に寄進したという伝承がある拝殿は、実際は鎌倉時代初期に建立されたものと考えられているが、拝殿として現存する建築物としては日本最古のものとされ、国宝にも指定されている。


楼門は文保2年(1318年)建立とされる重要文化財。正面の額に書かれている「萬古猶新」之文字は、山縣有朋の筆によるもの。


境内には東天紅や烏骨鶏などのニワトリが約30匹放し飼いにされている。ニワトリは夜明けに鳴いて時を告げることから、神の使いとして親しまれている。


本日の行程はここまでとし、最寄りの天理駅から宿を取っている奈良駅へと向かう。途中、市名の由来にもなっている天理教本部の前を通る。天理市民の4分の1程が天理教関係者とされ、市街地のほぼ半分が天理教関係の施設となっている。天理駅に向かうまでに法被を着ている人に数多くすれ違ったし、商店街では何人もの人に挨拶された。ちょっとした異世界感があった。