薩摩街道・豊前街道 Day5 その③
往生院前バス停の手前が広い駐車場になっていて、その奥に往生院がある。安貞2年(1228年)に開山した後、加藤清正によって古鍛冶屋町(現:熊本市中央区鍛冶屋町辺り?)に移され、享保9年(1724年)に現在地である池田に移転してきた。境内には放牛地蔵の6体目と100体目があるとのことだったが、訪問時には把握しておらずスルーしてしまった。
往生院の南東側に光永寺がある。かつては御宇田村(現:山鹿市鹿本町御宇田)にあった寺院だが、慶長年間に加藤清正の命で移転された。熊本城築城の際に余った部材で建築されたと言われる。また、西南戦争では薩軍の営所としても利用され、山門や本堂の柱には弾痕の跡が残っている。
県道が少しだけ左に折れるように進む箇所に三角地帯がある。ここに祠と「清正のまちと街路づくり」の説明板が置かれている。加藤清正が熊本城築城と並行して城下町づくりに注力したことが説明されている。ちょうどこの場所の道の作りはいわゆる枡形の名残りで、清正が自兵の動きを敵にさとられないよう戦略上の意図で作られたものといわれている。
京町を抜けると京町一丁目交差点で再び旧道は鉤型に折れる。これを進んでいくとついに熊本城の監物櫓が見えてくる。熊本城の北の入り口に位置し、街道の往来を見張る役割を持つ監物櫓であるが、よく見ると白い外壁の大半が剥がれ落ちているのがわかる。
ここから熊本城に入っていく。平成28年(2016年)4月14日に起きた熊本地震により熊本城の多くの建造物に損傷が生じた。先程の監物櫓もその影響が如実に現れている。今回の街道歩きはこの地震の影響がどれほどのものだったのか、どの程度復旧が進んでいるのかを自身の目で確認する意図もあった。
熊本城北側の防御の要である「百間石垣」も一部がえぐれる形で崩壊している。加藤家重臣の飯田覚兵衛により築かれたもので、高さ五間、長さ百一間の大きさを誇る。
二の丸御門跡も崩壊が激しく、立ち入りが禁止されている。崩落状況の記録や石材の回収などに時間を要するようだ。
城の外側をぐるりと囲むように南下し、新坂を下っていく。左手に庭園のようなものが現れる。これは「清爽園」という庭園で、明治時代に作られたもの。西南戦争後に熊本鎮台の将兵により戦没者を祀る祈念碑をこの場所に設置。その後、乃木希典の呼びかけにより熊本藩の大名屋敷であった花畑屋敷の庭石を再利用し、明治12年(1879年)に庭園が作られた。
庭園の傍らに「新一丁目門跡」の石碑があった。江戸時代までこの場所には「新一丁目門」があり、熊本城西側の玄関口であった。
庭園の傍らに里程元標跡の碑があった。この場所はかつて高札があったことから「札辻」と呼ばれ、豊前、豊後、薩摩、日向街道の起点としていたことが記されている。薩摩街道は更に南に続いていくが、今回は豊前街道区間を歩くものとして、ここで完歩とした。
ということで歩きはここで終わりだが、折角なので熊本城の様子ももう少し見ていくことにする。
御幸橋の袂に加藤清正像があった。尾張に生まれた清正は、羽柴秀吉の生母である大政所と清正の母が親戚にあたる縁から、秀吉に小姓として仕えることになる。天正12年(1584年)の秀吉による九州平定後、肥後国を治めていた佐々成政に交代して隈本城に入城。天正19年(1591年)頃に熊本城に改称した。治水工事や水田開発、領地経済の発展を進め、肥後国を豊かにしたことで、領民に慕われた城主として今にも語り継がれている。
西出丸の北西に位置する「戌亥櫓」は、一本足で支えているように見えることから注目を集めていた。平成15年(2003年)に復元された櫓で、石垣は陸軍が熊本城を占領していたときに取り壊されたものを復元したものだった。戌亥櫓の復旧完了は2037年を予定している。
天守閣にも足場が組まれている。熊本城のシンボルでもある大天守・小天守は、明治10年(1877年)に火災によって消失。その後、昭和35年(1960年)に鉄筋鉄骨コンクリートにより再建されたものだったが、先の熊本地震により石垣、外壁、瓦などの一部が崩壊。平成29年(2017年)より復旧工事を開始していた。
そしてこの訪問後、耐震補強やバリアフリー化も伴って令和3年(2021年)3月に完全復旧を果たす。速やかに復旧が完了したのは、天守閣が鉄筋コンクリートで近年に再建されていて、重要文化財に指定されていないため。櫓など重要文化財に指定されている建造物については瓦や柱をできるだけ元の部材を利用して復元しないといけない。特に石垣の積み直しは非常に困難を極め、それ故に戌亥櫓などを含めた熊本城全体の復旧は2037年に完了する見込みとなっている。
豊前街道沿いには西南戦争の影がいくつも残っていたが、乃木希典は官軍の勝利を「清正公が残した堅固な城のおかげ」と語っていた。この後の乃木希典の日露戦争で活躍を後押ししたのも、どこかに熊本城の支えがあったのかもしれない。
城はただの建物に過ぎず、人の心の礎となるのだ。
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