気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

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2016/02/27

大江戸線の「厩橋越え」の謎は諸説あり



都営地下鉄大江戸線は2000年に開通した比較的新しい路線。
都内で一番深いところを走る路線としても有名だが、この路線には様々な「謎」があり、半ば都市伝説化しているものもある。
その中の一つが、地図などを見たときに気になる人も多い、蔵前駅と両国駅の間にある謎の「分岐」であろう。
上下線が厩橋の直下を避けるように迂回して隅田川を越えるのである。

厩橋は昭和4年竣工の3径間下路式タイドアーチ橋である。
隅田川西岸にあった浅草御米蔵の北側に厩が併設されていたことから、一帯の隅田川沿いは「御厩河岸」と呼ばれており、元禄3年(1690年)には「御厩(河岸)の渡し」が認められた。明治5年(1872年)に渡しで転覆事故が起こると利用者が激減し、明治7年(1874年)に廃止された。その代わりに架橋されたのが(旧)厩橋である。

さて本題に戻ろう。
調べてみたところ大江戸線厩橋の謎は、既にいくつかの説が浮上しているようである。
代表的なものは以下の2つ。

1.橋を爆撃された際に、地下鉄が影響を受けないようにするため。

若干オカルト臭がする話。
「橋」は交通の要所であることから、戦時中は爆撃対象となるという。実際の東京大空襲では隅田川に架かる橋への攻撃は無かったが、もし爆撃された場合、崩れ落ちた鉄骨で川底がダメージを受ける可能性がある。
そのような場合に橋の直下に地下鉄を建設していると被害を受ける可能性があるため、それを避ける目的で大江戸線は厩橋を迂回しているというのである。

この議論の延長には、大江戸線のトンネルが戦前から存在し、その耐用年数が限界に来ていたため大江戸線開通の名目でトンネル補強を行ったという話があるが…。
あんまり触れないでおこう。

2.橋台に影響を与えないようにするため。

厩橋には他の橋と同様に立派な「橋台」と「橋脚」が備わっている。橋台・橋脚の地下にはそれらを支える「基礎」が設置されているはずである。地下にトンネルを掘ろうものなら、地下に埋まったこの障害物をどうしても避けなければならない。

隅田川を地下で行き来する路線は大江戸線以外にも多数存在するが、東西線以外は橋の直下に路線が存在しない。そもそも橋の両端を通るようにルートが設定されていないのだ。
ちなみに東西線は永代橋直下に路線があるが、永代橋は杭を使う工法ではない(ニューマチックケーソン工法)ため、橋と地下鉄を並列にすることが可能なようである。

本来であれば計画の段階で厩橋の両端を通るようなルート設定は避けるはずだが、隅田川西岸には国道6号直下を都営地下鉄浅草線が通っていることもあり、うまいこと橋を避けて川を越えるルートが設定できなかったようだ。

厩橋西岸付近の水深は3.7m[参考1]。
厩橋東岸付近の水深は3.9m[参考1]。
蔵前駅の深さは17.9m[参考2]。
大江戸線のトンネル外径は5.3mなので、杭基礎が川底から十数mもあれば地下鉄のトンネルに到達するしそうである。

(参考1:日本財団図書館(電子図書館) 船舶の河川航行に関する調査研究報告書
(参考2:蔵前 | 東京都交通局


2016/02/18

名所江戸百景:中川口 -水の流れは変わるもの-



名所江戸百景では、水を主題にした作品が多い。江戸が水を有効に活用して町づくりを推し進めていたのも一因ともいえよう。
特に江戸時代は、それまでに無いような大規模な河川工事が多く行われた。有名どころでは、文禄3年(1594年)から開始された「利根川東遷」なんかがある。
江戸府内でも水運輸送を充実させるために、水路の整備が進められていた。特に「塩」の確保を重要視した幕府は、天正18年(1590年)、江戸入府と同時に行徳を天領とし、江戸府内から行徳に向かう水路を開削した。これが「小名木川」である。

ここで作品を見てみよう。
画面を横断する流れが「中川」、中川を挟んで奥に伸びるのが「新川(船堀川)」、手前側が「小名木川」である。小名木川については、名所江戸百景の他のいくつかの作品でも題材として描かれているので、ここで深く言及するのは避けておこう。
今回はこの場所にあった「番所」にフォーカスを当てたい。

番所は河川を往来する船の出入りを監視・取り締まりを行っていた幕府設置の機関であり、いわゆる「関所」の一種である。寛文元年(1661年)まで小名木川の西端・隅田川口にあった船番所を、この絵が描かれた中川口に移転してきたものが「中川船番所」である。

中川船番所の最重要任務は、船積みされた様々な物資の流通量を監視することにあった。メインの「塩」をはじめ、米、野菜、鮮魚、硫黄など、様々な商品の出入りを見張っていた。特に生鮮食品については夜間の通行も認めることで、鮮度の高いものを江戸府内で手に入れることができるようになっていた。

広重の作品を見ると、人の行き来も盛んに行われていたのがわかる。
この番所では物資に対する厳重な監視に対して、人の往来についてはそれほど厳しくなかったという。とはいえ、他の関所と同様、女性の通行は厳しく制限されていた。
ともあれ、主な交通手段が船であったこの時代には、非常に重要な機関であったことがわかる。

明治2年(1869年)に関所制度が廃止されると同時に、船番所もその役目を終える。以降も新川から小名木川を経由したルートは蒸気船の運行などにより重宝されていた。蒸気船「通運丸」は日本橋蛎殻町から銚子までを18時間以上かけて運行していた。しかし、明治28年(1895年)の総武鉄道の開通を皮切りに、長距離の旅客輸送は次第に鉄道に移行していき、旅客輸送は短距離化していった。

荒川放水路が開通すると、それまでの中川は旧中川、そのすぐ脇に荒川放水路、その東脇を中川放水路が流れるようになる。このとき新川の西側はほとんどが放水路によって消失した。また河川間に水位差が生じ、船舶の通行に支障をきたすようになったため、これを解消するために昭和5年(1930年)に旧中川・荒川放水路間に小松川閘門、荒川放水路・中川間に船堀閘門が設置された。

中川船番所があった場所には現在平成15年(2003年)開館の「江東区中川船番所資料館」が立っている。資料館内には当時の番所の様子をジオラマで再現しているコーナーもあり、往時の様子を伺うことができる。
資料館向かいの川沿いには「旧中川・川の駅」が平成25年(2013年)にオープンした。ここは墨田区・江東区を中心とした観光名所を周遊する水陸両用バス「SKY DUCK」が、陸地から旧中川へ勢いよくダイブする様子を見ることができるポイントにもなっている。



現在の広重視点からの風景。旧中川から新川間の流れは小松川閘門によって調整されていたが、昭和50年(1975年)に船の需要低下から閘門の使用が終了し、新川も運河としての役目を終えた。旧中川と荒川に挟まれた土地は日本化学工業の工場が立っていたが、クロム鉱滓の埋め立て問題が発覚し、その後処理を行った結果として平成9年(1997年)には大島小松川公園が整備された。

現在、小名木川から新川方面を臨むと、産業遺産としての旧小松川閘門の堂々たる姿を拝むことができる。その傍らでは水陸両用バスやカヌーなどのアクティビティを楽しむ人が散見できる。

かつての水運の要所はもはや要所ではなくなってしまったが、人々は未だに川と親しく付き合っている。

2016/02/13

【中央区観光検定】今から来年の対策(2016年版)


2/11(木)に中央区観光検定を受験してきた。

中央区観光検定は23区初のご当地検定として2009年に始まったもので、今回で8回目となる。職場が中央区ということもあり、興味本位でテキストと過去3回分の過去問をまとめたものを購入した。

一通りテキストを読み、過去問を解いてみたところ、合格点の「75点」を越えることができたので、意気揚々と試験に臨んだのだが、想定外の問題が多く出題されたため自己採点の結果65点となってしまった。

とても悔しくて夜も眠れないので、今から来年の検定に備えて個人的に間違えやすいポイントを抑えておこうと思う。

築地は多くの大学発祥の地

明治元(1868)年に、現在の明石町域に築地外国人居留地が設置されると、それまで日本に無かった多くの西洋文化が築地から全国へ発信された。教育分野においても西洋の文化が持ち込まれ、さらに明治5(1872)年には海軍省が築地に設置された。これにより、西洋式学校と軍事関連学校といった、多様な学校が築地で創立することとなった。

創立年 旧学校名 現学校名 備考 出題回
1858 蘭学塾 慶應義塾大学 福沢諭吉が開設。
1870 A6番女学校 女子学院 ジュリア・カルゾロスが開設。
築地で最初に建てられた洋館。
1874 立教学校 立教学院 C.M.ウィリアムズ主教が開設。
1874 海軍会計学舎(海軍経理学校) - 明治21年に浴恩園跡地、
昭和7年に築地の一角に移転。
海軍解体に伴い昭和20年に閉校。

1875 築地語学校 雙葉学園 サンモール修道会の宣教師が開設。
1875 三菱商船学校 東京海洋大学 大久保利通内務卿の命を受け、岩崎弥太郎が設立。
当初は永代橋下流に成妙丸を繋留し、校舎とした。
⑥⑧
1877 東京一致神学校 明治学院

1888 工手学校 工学院大学

建築家と建築物を抑える

今回は都選定歴史的建造物に関する問題が多数出題された。建造物の特徴についてだけでなく、建築家に関する問題も出題されている。

設計 建築物 備考
ジョサイア・コンドル 北海道開拓使東京出張所 日本銀行はこの建物で業務を開始した。
辰野金吾(ジョサイア・コンドルに師事) 日本銀行本店本館 江戸時代の金座跡地。ベルギーの中央銀行を参考にしたネオ・バロック建築。
横河民輔 旧三井本館 関東大震災で被災。
森山松之助(辰野金吾に師事) 玉置文治郎ビル 関東大震災後の復興ビル。テラコッタの技法。
伊東忠太 築地本願寺 古代インド様式。
妻木頼黄 日本橋 麒麟と獅子のブロンズ彫刻などの装飾を担当。

歌舞伎座について知る

2013年に歌舞伎座がオフィスタワーを備えた複合施設「GINZA KABUKIZA」としてオープンした。世間の注目度も高いことから関連問題が出題されている。

歌舞伎座のはじまり

東京日日新聞社の主筆兼社長の福地源一郎が中心となって明治22(1889)年に開場した。現在のものは第五期の建物で、第四期の劇場外観をできるだけ再現して設計されている。

木挽町広場

地下2Fには土産物屋やイベントスペースとして利用されるエリアが設けられている。災害時には帰宅困難者を収容する施設となる。

歌舞伎座ギャラリー

5Fには屋上庭園を望める場所に、日本の伝統芸能を紹介する施設が備えられている。


この他の要対策項目としては、「橋」「イベント」「美術館」あたりが鬼門のように感じる。また来年近くなったらこの辺りについてもまとめたいと思う。

2016/01/11

江戸時代の年号を覚えたい その②


※ここまでのまとめ
(中期)元禄文化→享保の改革→寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応

ここでは年号と結び付きの強い「飢饉」と「大火」について調べてみた。

飢饉


  • 寛永の大飢饉

江戸時代初期は慢性的に凶作・飢饉に悩まされており、それが最大化したもの。

  • 享保の大飢饉

西日本を中心とした飢饉。これにより米価が高騰し、江戸で享保の打ちこわしが発生した。

  • 天明の大飢饉

東北地方を中心とした飢饉。これにより農村部から都市部に人口が流入し、治安が悪化。全国で打ちこわしが多発した。これら諸事により田沼意次が失脚し、事態の脱却を図るため寛政の改革が行われることになる。

  • 天保の大飢饉

洪水や冷害による凶作に伴う飢饉。百姓一揆や打ちこわしが全国で頻発し、大塩平八郎の乱にも繋がった。

参考:Wikipedia|江戸四大飢饉

(初期)寛永の大飢饉→…
→(中期)元禄文化→享保の改革→天明の大飢饉寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応

江戸の大火


  • 明暦の大火(振袖火事)

江戸の町について調べていると必ず引っかかるキーワードなのではないだろうか。この火事で江戸は一掃され、その教訓として回向院の建立、広小路の設置、隅田川東岸の宅地拡大をはじめ、江戸の都市計画が大きく変更される契機となった。

  • 明和の大火(目黒行人坂の大火)

目黒行人坂にある大円寺での放火が原因となった火事。目黒から出火し千住まで広がった。その後の建物の修復や再建において資材が不足し、物価がそれまでの10倍になってしまった。これら災難が明和九年(迷惑年)という年号によるということから、この年に「安永」に改元された。

  • 文化の大火(丙寅の大火)

芝で出火し浅草まで延焼した火事。下谷にあった組屋敷が全焼し、空き地で朝顔の栽培を始めたところ、江戸に朝顔ブームが広がることとなった。

ここまでをまとめると次のようになる。

(初期)寛永の大飢饉→…→明暦の大火
→(中期)元禄文化→享保の改革→明和の大火→安永に改元天明の大飢饉→寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応

ここまでで13個の年号が挙った。
ここからが難しいところになってくる。

2016/01/02

江戸時代の年号を覚えたい その①



「歴史と散歩とポタリング」というブログタイトルの癖に、当方の歴史知識は中学時代に義務教育で学んだところで停滞している。高校大学と理系街道をゴリゴリにまっしぐらしてしまったため、その間は歴史に触れる機会などほとんどなく、それは最近まで続いた。

最近街道散歩をするようになって、町中に「年号」が溢れていることに気がついた。ただ如何せん歴史知識が足りない故、その年号が示している年代がわからない。知っている年号に出会っても、その時代が時系列上のどのポジションに位置するのかが分からない。
すべての年号を覚えるのは大変なので、とりあえず江戸時代の年号をどうにか覚えてみようと試行錯誤してみた。

江戸時代に使われた年号は、
慶長、元和、寛永、正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文、延宝、天和、貞享、元禄、宝永、正徳、享保、元文、寛保、延享、寛延、宝暦、明和、安永、天明、寛政、享和、文化、文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応
の36個。
さて、どう覚えようか。

三大改革と文化をおさえる

江戸時代の年号が入っている有名な歴史用語といえば江戸の三大改革。これを軸にして江戸の全体像を捉えよう。

  • 享保の改革
八代将軍・徳川吉宗による政策。倹約令や目安箱が有名。

  • 寛政の改革
老中・松平定信による政策。倹約令や朱子学以外の学問の禁止を行った。

  • 天保の改革
老中・水野忠邦による政策。農民の出稼ぎ禁止、株仲間の解散などを行った。

江戸時代の二大文化も押さえやすい。大衆文化の興りは改革とも強い結び付きがあるため、セットで時代背景を追いやすい。

  • 元禄文化
上方を中心に栄えた文化。松尾芭蕉の奥の細道、近松門左衛門の曽根崎心中、尾形光琳による琳派の台頭など。

  • 化政(文化・文政)文化
元禄文化が上方中心だったのに対し、化政文化は江戸からの発信も盛んだった。寛政の改革による厳しい統制に反発するように、民衆に明るさを提供する役割を担うものが人気を集めた。

ここまでを時系列にすると、
元禄文化→享保の改革→寛政の改革→化政文化→天保の改革
となる。これで江戸中期の基本となる年号はおさえられたのではないか。

出来事の名前に年号が使われているもの

改革と文化の他に中学の歴史で出来事の通称に年号が含まれているものは、次のようなものがあるので、これを改革・文化と照らしあわせて時系列を覚えてしまおう。

  • 安政の大獄
大老・井伊直弼による尊王攘夷派の大量処罰事件。吉田松陰などが処刑され、後の桜田門外の変に繋がる。いかにも幕末だなーという感じがする事件。

  • 飢饉

江戸期には飢饉が散発的に発生していた。これについては改めて別の機会にまとめようと思う。

幕末の年号を付け加え、ここまでを時系列にすると、

(中期)元禄文化→享保の改革→寛政の改革→化政文化→天保の改革→…
→(後期)安政の大獄→…→江戸開城(慶応

となる。所々の結びつきは補う必要があるが、中学時代に耳にした年号はほとんど出揃っているはずである。

次回以降、さらにこの繋がりを強固にして年号の時系列を覚えていきたい。

2015/12/14

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day6の④ 〜ついに結願!〜



頼母沢の集落を抜けると、山道への入口と案内板が顔を出す。
「札所34番 水潜寺 ここより徒歩約一時間半」という矢印は「熊出没注意」の看板を貫いて急峻な山道を指していた。最後の戦いの場、札立峠に向かう登山道の入口である。
巡礼者の格好をした男性が颯爽と坂を登って行くのを横目に、熊除け用の鈴をかばんに付ける。軽い柔軟運動を済ませ、登山道の利用状況調査のためのカウンターを軽快に鳴らして、眼前の登り坂へと足を運んだ。

「しばらく登り ガンバロー」の標識に誘われて九十九折の山道をひたすら登っていく。先行していた巡礼姿の男性も途中の曲がり角で足を止めて休憩していた。成人男性でもなかなかに厳しい登りが休みなく続いた。



15分ほどひたすら登り続けると、平らな石が路傍に置かれていた。看板は半壊していたが、どうやら「休み石」と呼ばれる石だそうだ。
座って休むには高さが足りない気がしたので、写真を撮るだけにしてその場を後にした。


休み石から10分ほどで札立峠に到着。天長元年(824年)の大旱魃の折、付近を通りかかった旅の僧が村人に観世音を拝むようにと説いた。そこで「樹(澍)甘露法雨」と書いたの札を立てて拝んだところ大法師が現れ、岩を杖で突くと水が湧き出てきたという。この逸話が水潜寺、ひいては百観音の起こりとされるエピソードである。
峠の一角に大小の観音様が置かれていた。その傍らには熊野修験の木札が置かれていた。平成二十六年度の五月とかなり新しいものだった。午年総開帳に合わせて奉納したのだろうか。
札立峠は見晴らしが全くないが、ここから500m先の破風(はっぷ)山へ向かうハイキングルートが整備されており、破風山頂からは秩父盆地が見渡せるので、時間があればそちらに寄るのも手だろう。
破風山から水潜寺に至る道は「関東ふれあいの道」の一部になっている。しかし峠からの下り道は結構険しく、ふれあっているどころじゃない。
ゴツゴツとした岩がせり出ている箇所も多くあるため、足場が悪く滑りやすい。途中で男性が立ち往生していて何事かと思えば、足を挫いてしまったらしく同行の方の介抱を受けているところだった。下るにつれ湿気も増えてきたので、気を引き締め直してゴールを目指す。


ついに34番寺・水潜寺に到着。
小雨のぱらつく中、文政11年(1828年)に建立された本堂を前に呼吸を整える。
西国・坂東に秩父を合わせた日本百観音の結願寺でもある水潜寺は、千手観音を本尊としている。その両脇を挟むように西国を意味する西方浄土の阿弥陀如来、坂東を意味する東方瑠璃光世界の薬師如来が祀られているのが、結願寺ならではの特徴である。

最後のご朱印をもらおうと納経所に向かおうとしたところ、何やら長蛇の列ができているではないか。話を聞くと、御朱印を貰うまでおよそ40分並ばなければならないという。さすが結願寺といったところだろうか。某ランドのちょっとしたアトラクションの如く、冷えきった体を揺らしながらの待ちぼうけ。


ついに結願!
6日間・全長約100kmの道のりがここで終了した。

帰路は「札所前」のバス停から皆野町営バス日野沢線の最終で皆野駅へ向かう。天候が悪くなったこともあり札所前で満員となってしまった。

思いつきで始めた巡礼の旅であったが、気がつけば山あり川あり藪ありのなかなかに楽しい道中だった。それまで「巡礼」という言葉すら耳にした程度たっだが、巡礼というものがどういった経緯で民衆に広まっていったのか、人々がどのような思いで巡礼を行っていたのかに触れることが出来たのは本当に有意義な経験であった。

埼玉にこのような日本に誇れる歴史的コンテンツがあるということを多くの人が知らないだろうし、知った所で巡礼を実際に行ってみようという人は少ないであろう。それでもこの秩父巡礼が今なお人々の支えになっていること、そしてこれからも多くの人の支えてくれる存在となることを、現代そして後世に伝えられれば是幸である。

2015/11/30

秩父三十四カ所巡礼の旅 Day6の③ 〜最後の峠へ向けて〜



三十三番寺・菊水寺に到着。
正面に「正大悲殿」の額が掲げられている本堂は、文政3年(1820年)に再建されたもの(大悲殿は観音菩薩が祀られている建物を指す)。入母屋造りの建物に菊水の紋がよく映えている。
写真に収めるのを忘れてしまったが、境内には県内最古と言われる寛保年間の芭蕉句碑「寒菊や こぬかのかかる 臼のはた」がある。

ここまでくれば最後のひと踏ん張り、意気揚々と34番寺を目指す。
桜井橋までの区間はところどころ旧道が残されており、旧道のうねうねとした線形を楽しむことができる。桜井橋はかつて現在よりも少し上流に位置しており、そこまでの旧道が残されていたが、川をそのまま渡ることはできないので、結局桜井橋に戻ることになる。
取方の交差点で永法寺の参道にぶつかる。「萬福山永法禅寺」と揮毫された寺標の脇に「左三十四番」と刻まれた道標がある。とはいえ下の方は草と土に埋もれて判読できない。
従来の古道はこの辺りから吉田川を越えて土手道を進むが、現在は通れないので吉田下橋まで迂回する。


吉田下橋の辺りに八幡神社と旧武毛銀行本店のレトロな建物が残されている。県道をこのまま進むと旧吉田町の中心街となる。秩父盆地の明治初頭の人口を見ると、(秩父)大宮に次いで2番目の規模を誇ったのが下吉田である。
今回は中心街には寄らずに、手前の吉田下橋で吉田川を渡る。橋を渡ってすぐに右折すると、旧道の土手を少しだけ歩くことができる。
ここから先の道筋がやや難解で、ガイドマップはややデフォルメされている。基本的には曲がり角などに設置されている江戸巡礼古道の道標に従っていけば問題ない。
畑と畑の間の細い道を通ったり、短い区間だが未舗装の足場の悪い登り坂もあるので注意が必要である。この坂を登り切ると秩父事件激戦地でもある清泉寺の前に出る。

龍勢会館前を通過する。吉田の龍勢祭りは毎年10月の椋神社の例大祭内の催しとして行われる。火薬を仕掛けたロケットを天高く打ち上げる「龍勢」が見ものである。
そのまままっすぐ行くと天徳寺の入口前を通過する。この寺の浦山には「天徳寺城」や「寺山砦」と呼ばれる山城の遺構が残されているが、関連する記録がほとんど存在しない謎多き山城となっている。
道なりに進むと県道37号線と合流する。信号を越えると左手に立派なお堂が鎮座している。この平石(ひらなめ)馬頭尊堂は弘化四年(1847年)に竣工したもので、現在の吉田久長地区の前身にあたる久長村が発願したものである。
境内には明和五年(1768年)建立の宝篋印塔や、元禄・大正期の道標があるようだが確認しそびれてしまった。

ここから最後の山越え、破風山への登りが始まる。まずはしばらく沢沿いの車道を行く。車通りもほとんどなく、巡礼かハイキングを楽しんでいると思わしき二人組が、たまに訪れる直線区間でチラチラと見える程度。
左手の山が少し開けた場所に石碑が3つ並んでいた。調べた所一番右の石碑には「享保十六辛亥天 右水込道 奉唱念佛百万遍供養塔」と刻まれているらしい。丁度この石碑の裏山に、鉢形城の支城であり「吉田の盾」とも呼ばれた「龍ヶ谷城」があったようだ。
石碑群の少し先に草木が綺麗に整えられた場所がある。そこから沢を土橋で越える道が伸びている。これが「水込道」なのだろう(ちなみに「水込」は水潜寺を指す)。
ここからしばし山道となる。ひとしきり登り切ると石塔と巡礼道のプレートが掲げられており、そこからは緩やかに下り、すぐに車道へと出てくる。

林道頼母沢(たのぶさわ)線をひた登っていく。おそらくこの林道沿いに流れる沢が「頼母沢」のようで、今回の旅最後の集落の名でもある。
頼母沢を堪能していると石碑群と小さなお堂が現れた。お堂はおそらく地蔵堂。石碑は念仏二百万遍供養塔、如意輪観音、そして光明真言百万遍・阿弥陀名号一億・具一切?百万遍がセットになった供養塔が並んでいた。

まだまだ登りは始まったばかり。ここからが本番となる。