気の向くままにつらつらと。

歩きや自転車で巡った様々な場所を紹介します。ついでにその土地の歴史なんかも調べてみたりしています。

※当サイトに掲載されている内容は、誤植・誤り・私的見解を大いに含んでいる可能性があります。お気づきの方はコメント等で指摘して頂けると嬉しいです。

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2018/08/28

【歩き旅・ルート】水戸街道 〜山と水田を眺める道〜




徳川家康が江戸に入府してまず取り掛かったのが五街道の整備。慶長6年(1901年)から整備は始まったが、その五街道である日光街道、奥州街道と千住宿で分岐し、水戸方面に伸びるのが水戸街道である。
江戸時代には五街道の付属街道として主要な街道に配置される道中奉行の支配下にもあったことから、当時から重要であったことが伺える。

水戸といえば思いつくのが水戸光圀に代表される御三家・水戸徳川家。慶長14年(1909年)に徳川頼房を創始とする水戸徳川家が成立すると、水戸街道の整備はさらに盛んになっていった。

水戸徳川家が治めていた水戸藩は参勤交代を行わない江戸定府であったため、藩主が水戸街道を通行することは稀であった。代わりに家臣や伝令の行き来は盛んに行われていたようである。
また参勤交代で利用する藩も多く、23もの大名が利用していたという。これは水戸藩の勢力拡大に伴う街道整備により交通の便が良くなったこと、そして五街道の混雑を避ける目的で利用する藩が多かったようだ。

水戸までの道中はアップダウンもほとんどなく、平地をひたすら進んでいくような感じである。東京都内から千葉県内にかけては都市部の外郭エリア、以降は住宅地と田園風景を交互に眺める道中であった。
基本的にJR常磐線に沿った道のりではあるが、石岡駅から水戸駅までは駅から離れた場所を進むため、この区間は一日で水戸まで歩いてしまうことをオススメする。
山あり谷あり波乱万丈な行程ではないが、まったりと風景を眺めながら進む街道歩きとして楽しむことができた。

宿場は以下の通り。
千住宿ー新宿ー松戸宿ー小金宿ー我孫子宿ー取手宿ー藤代宿ー若柴宿ー牛久宿ー荒川沖宿ー中村宿ー土浦宿ー中貫宿ー稲吉宿ー府中宿ー竹原宿ー片倉宿ー小幡宿ー中村宿ー水戸宿

1日目 2015/06/13 千住〜金町 その①
2日目 2015/06/23 金町〜柏 その① その②
3日目 2015/07/19 柏〜藤代 その① その②
4日目 2016/06/11 藤代〜土浦 その① その② その③ その④
5日目 2016/11/20 土浦〜石岡 その① その② その③
6日目 2018/03/18 石岡〜水戸 その① その② その③ その④

参考文献
松戸市立博物館企画展「水戸道中 宿場と旅人」

2018/08/15

浅草線はなぜ泉岳寺駅で分岐するのか




都営浅草線は押上駅から西馬込駅を35分で結ぶ地下鉄である。押上から山手線東側に沿うようにして南下し、泉岳寺駅付近で南西方向に進路を変えて西馬込方面へ伸びていく。泉岳寺駅は京急本線との直通運転の分岐点となっており、京急本線品川方面へ向かう電車と、浅草線本線を西馬込方面へ向かう電車がこの駅で交差する。

ある日ふと疑問に思ったのだ。「なぜ泉岳寺駅で分岐するのか」と。分岐するにしても品川駅で分岐したほうが何かと利便性が良さそうであるし、そもそも進行方向を変えてまで西馬込方面へ向かう必要があるのかと。

その謎を浅草線の歴史から考察してみると明確な理由は明らかにならなかったが、複合的な要因があって現在に至ることが分かった。

地下鉄の必要性を説いた男


こちらの路線図は大正9年(1920年)「東京市の交通機関に就て」(国立国会図書館デジタルコレクション)より抜粋したもの。右が北を指しており、中央に皇居がある。皇居の東側を南北に通るのが、東京地下鉄道株式会社によって「第一期工事路線」として提案された路線。浅草と南千住を起点として品川へ至る線形は、現在の浅草線と銀座線のルートを合わせたよう。この路線を提唱した早川徳次は、早稲田大学卒業後、南満州鉄道、内閣鉄道院(後の鉄道省)、東武鉄道で従事し、鉄道の将来に希望を見出した。大正3年(1914年)にはロンドンの鉄道事情を視察し、そこで市民の足として利用されている地下鉄の有用性を目の当たりにした。その経験を元に彼は都市を高速に移動する手段として地下鉄が早急に必要であることを説き、後に「地下鉄の父」と呼ばれることになる。

彼が提唱した「第一期工事路線」は、郊外の鉄道との接続を意識したものである。南端の品川駅(現・北品川駅、1904年開業)では京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)と接続。北端は2方向に分かれるが、浅草駅方面は第二期工事に延伸して京成電気軌道(現・京成電鉄)押上駅(1912年開業)に接続し、もう一方は南千住駅(1896年開業)で日本鉄道(現・JR)常磐線、東北線、少し離れた王子電気鉄道(現・都電荒川線)三ノ輪橋駅(1913年開業)とも連絡する計画である。
このときの計画は、複数路線を接続することにより、都市間を高速に移動することに主眼を置いていたことがわかる。
早川の東京軽便地下鉄道は第一期工事路線にあたる免許を大正8年(1919年)に取得している。
免許状
東京府東京市芝區高輪南町ヨリ同府同市浅草區公園廣小路ニ至ル(中略)地下鐵道ヲ敷設シ旅客運輸ノ業ヲ営ムコトヲ免許ス

東京市による都市計画

大正12年(1923年)9月1日、東京が未曾有の災害に襲われた。関東大震災である。
この出来事によりそれまで計画されていた地下鉄計画は一度白紙となったが、当時の東京市民の足であった市電も大きなダメージを負った事から、市内の交通手段の整備が早急に必要な状況となった。

都市に鉄道路線を計画するにあたって、複数路線をどのように交差させて路線を組み立てるかが重要になってくる。いくつかの案については後述するが、共通して言えるのはどれもが「都市輸送」ではなく「都市輸送」を意識したものであるということ。つまり路線のジャンクションを都市部に設け、そこから各方面へ向かう路線へ乗り継ぎ郊外へ向かえるようにする考え方である。これにより郊外に複雑な路線網を構築することなく、必要最小限の路線で効率の良い輸送を可能としている。

東京市はまずPetersen(ペーターゼン)式による交通網の構築を模索した。この方式は、都市部に碁盤の目のように路線を通すことで簡潔に路線を組み立てることができる一方、目的の路線までの乗り換えが多くなってしまう場合がある。日本では大阪地下鉄がこの方式といえる(参考:OsakaMetro|路線図)。

大正13年(1924年)の東京市出願路線は、このペターゼン式を念頭において計画された。現在の浅草線に相当する路線は北千住〜上野〜日本橋〜三田〜五反田〜平塚(品川区)を通る2号線として計画されていた。しかし、この東京駅を中心とした路線網を考えたとき不都合が生じてしまうことが想定された。それはどうしても皇居の下を通すような路線を構築しなくてはならないことである。そこで皇居を迂回しつつ、他の路線との乗り換えが1回で済ますことができるTurner(ターナー)式を採用することにした。
この経緯は、大正14年(1925年)1月31日の時事新報に記されている(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・時事新報 鉄道(20-51) 大正14年1月31日「地下鐵道案變更 關係者協議會でターナー式採用に決定」)。
大正十四年三月 内務省公示 東京都市計画高速度交通機関路線網
第一號路線 
省線五反田驛附近より芝公園、新橋驛、日本橋、上野、浅草を経て押上に至る
ただし、この路線の一部はすでに東京軽便地下鉄道が工事準備を進めていた路線と並行していたため、第一號路線の免許取得には至らなかった(同時に申請していた第二號〜第五號路線は免許取得)。しかし同時に、今後東京市が東京地下鉄道を買収して東京市の地下鉄網を統一すべしという見解が添えられた。これが後に都営地下鉄・営団地下鉄の共存へと繋がるのだが、その話はまた別の機会に。

東京軽便地下鉄道改め東京地下鉄道も、同年5月に三田二丁目から省線五反田を経由して池上に至る路線の免許を申請している。これは免許取得していた浅草〜品川間から分岐する形の路線となっており、こちらは昭和4年(1929年)に免許取得となった。


この路線図は昭和9年(1934年)段階の東京地下鉄道の免許線を表したもの。白丸で結ばれた黒線は東京市営電車(東京市電)の軌道を表しており、赤い破線が分岐しているのは札ノ辻停車場あたりになる。泉岳寺停車場はその一つ南にある白丸の箇所である。

度重なる修正と戦後の復興計画

ここからこの東京地下鉄道の計画線がどのような経緯を辿って現在に至るのか、ダイジェストで語る。

昭和2年(1927年)、東洋初の地下鉄が浅草〜上野間で開業した。後の東京メトロ銀座線の一部であるこの路線を開業したのは東京市ではなく早川の東京地下鉄道で、昭和9年(1934年)に浅草〜新橋間を開通させたところまでは計画通りであった。東京市が財政難などを理由に免許の一部を「東京高速鉄道」に譲渡したのだ。この会社は東京横浜鉄道(後の東京急行電鉄)の資本で設立されたものである。東京高速鉄道による路線開通は進み、昭和14年(1939年)には渋谷〜新橋間が繋がった。
東京地下鉄道は当初より品川まで路線を延伸し、京浜電気鉄道と接続することを考えていたため新橋駅での東京高速鉄道との乗り入れに反発したが、結局新橋駅で相互乗り入れすることとなり、これが現在の東京メトロ銀座線の前身となった。
第二次世界大戦が始まると鉄道を取り巻く状況は一変し、昭和16年(1941年)に東京地下鉄道、東京高速鉄道は「帝都高速度交通営団」として統合された。これが後の東京メトロである。

戦後は地下鉄計画が状況に応じて頻繁に見直されていくこととなり、新橋以南の路線計画も幾度となく見直しを重ねていくこととなった。

戦後直後には政府に戦災復興院が設置され、昭和21年(1946年)には東京復興都市計画鉄道として5路線が告示された(戦災復興院告示第252号)。
1号線:武蔵小山ー五反田ー田町ー愛宕町ー虎ノ門ー日比谷ー銀座ー茅場町ー浅草橋ー上野広小路ー本郷三丁目ー巣鴨ー板橋1丁目
昭和31年(1956年)の都市交通審議会第1号答申「東京およびその周辺における都市交通に関する第一次答申」では下記ルートが提唱された。
第1次線:五反田ー三田ー御成門ー虎ノ門ー日比谷ー銀座ー築地ー茅場町ー浅草橋ー雷門ー吉野町二丁目ー南千住ー北千住 
またこの答申以降、それまで営団地下鉄主導で行われていた地下鉄計画に都営地下鉄が参画することとなった。
昭和37年(1962年)の都市交通審議会第6号答申では、人口の都市集中が問題として取り上げられ地上交通の混雑緩和としての意味合いが強い路線計画が提唱された。
1号線:品川ー泉岳寺ー田町ー新橋ー銀座東4丁目ー江戸橋1丁目ー人形町ー浅草橋ー駒形ー吾妻橋1丁目付近(押上)
6号線:西馬込ー五反田ー田町ー日比谷ー春日町ー巣鴨ー大和町ー上板橋ー志村
この計画では1号線を品川方面、6号線を五反田方面へ延ばす計画であったが、昭和43年(1968年)の都市交通審議会第10号答申では、
1号線:西馬込・品川ー田町ー新橋ー浅草橋ー浅草ー押上
6号線:桐ケ谷ー五反田ー三田ー日比谷ー春日町ー巣鴨ー板橋ー大和町
と改められた。1号線は現在の浅草線の線形とほぼ一致している。同年に都営1号線大門駅〜泉岳寺間が開業すると同時に、京急線と相互直通運転を実施。2018年で50周年を迎えた。
なお6号線(後の都営三田線)は桐ケ谷駅で東急池上線と直通運転する計画であったが、計画は中止され五反田ではなく目黒方面へ延伸し、目黒駅で東急目黒線と直通運転を果たすこととなった。

まとめ

都営浅草線が泉岳寺で分岐する理由として、当方では下記2点を理由として述べることにする。

①都市計画の観点から、郊外と都心を結ぶ路線が必要であったため。
 押上・品川間を南北に縦断するのではなく、当時都市開発が進んでいた山の手の外側・五反田以西にも路線を延ばす必要があった。

②私鉄各社との相互直通運転を行うことで、都心部の路線網が複雑になることを防ぐため。
 押上で京成電鉄、品川で京急電鉄と相互乗り入れし、東急電鉄との乗り入れ計画は破綻してしまったが、五反田では東急池上線に乗り換えができる。

実は現在、成田空港と羽田空港を短時間で結ぶための「都心線」構想が浮上している。押上〜新東京駅(現在の大手町駅近く)〜泉岳寺間を大深度で結ぶことで、空港利用者の利便性を高めようというわけである(参考:「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」)。
この計画を受けてというわけではないが、泉岳寺駅の改修計画も進んでいる(参考:「都市高速鉄道第1号線(都営浅草線・京浜急行本線)泉岳寺駅の改良計画について」)。さらに山手線の新駅も泉岳寺駅近くに開業することになりそうであったり、泉岳寺駅を取り巻く環境は変化しつつある。

これまで単なる乗換駅であったこの駅が、今後どのような変貌を見せるのか期待したいところである。

都営浅草線年表

1960年11月 都営地下鉄線として押上〜浅草橋間開業。京成線と直通運転を開始。
1962年5月 浅草橋〜東日本橋間開業。
1962年9月 東日本橋〜人形町間開業。
1963年2月 人形町〜東銀座間開業。
1963年12月 東銀座〜新橋間開業。
1964年10月 新橋〜大門間開業。
1968年6月 大門〜泉岳寺間開業。京急線と直通運転を開始。
1968年11月 泉岳寺〜西馬込間開業。
1978年7月 都営地下鉄1号線を浅草線に改称。

2018/06/24

【歩き旅】大山街道 Day8 その③ 〜さよなら大山〜



大山街道を制覇した余韻もさながら、この山を下らなければお家に帰れない。
下りは雷ノ峰尾根から見晴台を経由して阿夫利神社下社へ戻り、さらに女坂を使って大山ケーブル駅に戻るルートを採用した。

不動尻分岐の先から雷ノ峰尾根をその名の通りジグザグに降りていくと見晴台に到達する。靄がかかって景色があまり良くなかったのでスルー。


見晴台を越えてしばらくすると巨大な杉があった。元々、大山祇神を祀った山の神神社の御神木と他の木が下部で結合しているもので、「絆の木」と呼ばれているという。


橋を渡りながら進むと、その先には二重滝。水量は少ないが、かつてはこの滝も禊で利用されていた滝で、雨乞いの滝とも呼ばれている。


二重滝の隣には二重社がある。ここでは高龗神が祀られている。高龗神は八大龍王という名でも知られており、龍族の王とされる。そのため狛犬の代わりに龍が置かれている。


二重橋から10分ほどで下社へ戻ってくる。ここからは女坂をたどって麓を目指す。
女坂は道中に七不思議という見どころがあり、 坂下からその1〜7までの説明板が設置されている。
こちらは七不思議の一つ「眼形石」。目の形をしたこの石に触れれば目が治ると言われているようだが、どうやって見れば目に見えるのかがイマイチ掴めなかった。また、石像横の石にはなにやら文字が刻まれているようであるが、こちらも解読不明であった。


こちらは七不思議の一つ「潮音洞」。この小さな洞窟に耳を近づけると潮騒の音が聞こえるという。


朱塗りの無明橋を渡る。こちらも七不思議に指定されており、話をしながら渡ると下に落ちたり忘れ物や落とし物をしたり悪いことが起こるという。かつては危険な橋で、慎重に渡ってほしいとの思いが伝承となって伝えられたのだろうか。


大山寺へ到着。廃仏毀釈に伴い、現在の下社に当たる場所にあった不動堂が廃止、明治18年(1885年)に現在地に再建された。大正4年(1915年)までは明王院という名前であった。本尊の不動明王像は文永11年(1264年)鋳造のもので国の重要文化財に指定されている。
現在ではもみじ寺や関東三十六不動尊霊場の第一番として知られる古刹である。今回は利用しなかったがケーブルカー「大山寺駅」が目の前にあるので、足腰の悪い人や登山をしたくない人でも容易に訪れることができるようになっている。


紅葉と灯籠と童子像が並ぶ石段は、大山寺のフォトスポットとしてよく取り上げられている。この季節は青モミジであったが、それでも風情のある景観であった。


七不思議の一つ、逆さ菩提樹。上が太く下が細いように見えることからそう呼ばれたのだろという。あんまりピンとこないのはこの木が二代目だからだろうか。


この爪切り地蔵も七不思議の一つ。弘法大師が爪で石を彫り、一夜のうちに作り上げたのだという。その伝説を抜きにしても、岩を削って作った仏像作品として価値あるものである。


こちらも七不思議の一つ、子育て地蔵。普通の地蔵として祀っていた石像の顔がいつのまにか童に変わっていたことから、子育て祈願に利用されるようになったのだという。


坂の終わりに近づいた頃に最後の七不思議、弘法の水がある。弘法大使が岩に杖をついた箇所からこんこんと水が湧き出てきたという伝説に基づく。水量が変わらず常に湧き出ていることが売りなのだという。


女坂を下りきり追分へ戻り再びこま参道へ。遅めのお昼ご飯は参道にあるお店の山菜そばとなった。

今回初めて大山を訪問したが、このブログを執筆している時点で実はこのあと2回も訪れている。さよなら大山、次もまたよろしく。

2018/06/21

【歩き旅】大山街道 Day8 その② 〜大山攻略〜



下社から上社のある大山山頂へは登拝門を潜って石段を登っていく。明治初年の神仏分離までは、大山では夏の山開き(7月27日〜8月17日)の時期のみ登拝が許されており、それ以外は門が閉ざされていた。
門の鍵は古くから東京日本橋のお花講が管理しており、今でも7月27日の山開きにはお花講が扉を開ける慣習が残っている。とはいえ現在では通年に渡り登山が可能であり、登拝門は常に開いている。そこで、失われてしまったこの門の意義を尊重する形で、片側を閉ざした「片開き」の状態で門を設置している。現在の門は平成24年(2012年)に再建されたものである。


登拝門の先には「本坂」と呼ばれる急な石段からなる坂が続く。手すりを頼りに登っていくと、少々開けた場所に「阿夫利大神」と刻まれた石碑が建っている。
この場所は白山神社があった場所で、加賀白山神社を勧請したものと考えられるが、大山寺開山以前からあったという。修験僧の修行の一つとして、白山神社を拝するという過程があったという。


六丁目から「千本杉」と呼ばれる杉に囲まれた山道をゆく。昭和20年代の造林によって作られたものだろうか。八丁目付近には「夫婦杉」と呼ばれる樹齢600年以上の巨木がある。


十四丁目付近からは、足元に「ぼたん岩」を見ることができる。球状の岩がシワのように重なって、牡丹の花のように見えることからそのように呼ばれる。タマネギ石とも呼ばれるこの現象は、岩石の風化による現象だという(参考:平塚市博物館|東丹沢のタマネギ石)。


十五丁目付近にあるのが「天狗の鼻突き岩」。写真ではわかりにくいが、岩の左上あたりいに拳大の深い穴が空いている。


十六丁目は蓑毛方面へ下る道との分岐点があり、石碑が建てられている。1716年(享保元年)に新吉原町中によって建てられたもので、高さは3m60cmある。
石碑の正面には「奉獻 石尊大権現 大天狗 小天狗 御寳寺」と刻まれている。廃仏毀釈以前には、大山の山頂付近に石尊社が設置され、不動明王を石尊権現として祀っていた。さらに奥宮には大天狗、前社には小天狗が祀られており、山岳信仰や修験道の色が強かったことが伺える。


さらに登っていくと周りの植生が少し変わってきた。太い幹の木は少なくなり、空が開けてきている。この頃には大学生のグループに颯爽と抜かれていくくらいの体力だった。


二十五丁目まで登ってきた。ここはヤビツ峠から来るルートとの合流ポイントとなる。ヤビツ峠は丹沢ハイキングの起点にもなる主要地点で、最近ではサイクリングやツーリングで訪れる人も多い。


二十七丁目で銅の鳥居を潜る。明治34年(1901年)に東京・銅器職講によって奉納された。


二十八丁目には石鳥居。寛政10年(1798年)に江戸町火消「れ組」の御供物講が奉納し、明治21年(1888年)に三度目の再建を行ったものである。その奥に見えるのが前社で高龗神(たかおかみのかみ)が祀られている。そろそろフィナーレの予感がしてきた。


阿夫利神社上社に到着。上社には大山祇大神が祀られている。ここでは様々なルートから集結したハイカー達が一同に集結しており、本社横の食事処で休憩している人も多かった。


さらに登れば奥の院。ここには大雷神(おおいかづちのかみ)が祀られている。


というわけで大山山頂(標高1252m)に到着。これにて大山街道青山通りを無事踏破となった。


大山山頂からの風景。天気は良かったが少々もやがかかっていたので、遠くまで見晴らすのは難しかった。
それでも江戸時代に多くの町人が歩いたであろうルートとほぼ同じ道筋をたどり、往時の人々がどのような気持ちで大山を登り、そしてこの風景をどんな気持ちで眺めていたのかと考えると感慨深いものがある。
気軽に訪れることができる霊峰であるからこそ、一度ならず何度も登拝した信心深い講中もあったであろう。多くの人々の拠り所としての、大山の存在を五感で確かめた旅であった。



だが、下りもある。

2018/06/16

【歩き旅】大山街道 Day8 その① ~大山てくてく~



ついに最終日。本日は大山山頂を目指して街道歩きというよりは登山に挑戦する形となった。せっかくの登山日和ということもあり、今回は友人を道連れにして頂を目指す。

小田急伊勢原駅から大山ケーブル駅行きのバスに乗り20分ほどで終点の大山ケーブル駅に到着。バス停からすぐに「こま参道」の階段が延びる。もともとは左手にあったもみじ坂が参道だったが、関東大震災の被害により付け替えられた。


途中「茶湯寺」への分岐がある。前回のエントリーで複数の寺院が合併してできたと紹介した寺だが、今回は立ち寄らず。


参道には豆腐料理屋、食事処、土産物屋などが立ち並んでいる。大山は関東近郊では初心者向けの登山コースとして名高く、この先も小さい子供の姿を何度か見かけた。


「左 阿夫利神社 不動尊 道」と刻まれた道標がある場所を右に行くとケーブルカー乗り場となる。もちろん左へ進む。


階段をのぼると八意思兼(やごころおもいかね)神社がある。ここから阿夫利神社下社の手前までは男坂・女坂の2つのルートがあることから追分社とも呼ばれる。
八意思兼命は知恵を司る神。天岩戸伝説においては、岩戸の外で宴会をしていればきっと天照大神は気になって出てくるだろうという巧妙な心理作戦を八百万の神に提案した神でもある。
今回は行きを男坂、帰りを女坂を使用して行こうと思うが、おそらく女坂から登ったほうが緩やかな道のりで足への負担は少ないはず。


追分社の脇の急な石段から男坂が全力で圧倒してくる。一段一段が大きいので、つづらの折返しごとに息を整えながら登っていく。


登山は周りの景色が急に変わることはほとんどない。そんな変わり映えがしない景色に変化を与えてくれる要素の一つが「町目石」だ。登山の最初の方は今何町目かをカウントしつつ着実に登っていることを実感するのだが、段々と数えるのが億劫になってしまう。そしてそもそも何町目が頂上なのかを忘れてしまって、いつしか町目石は景色の一部に溶け込んでしまうのである。


変わり映えしない石段を眺めつつ登っていると、真新しい看板が目に刺激を与えてくれた。「男坂三十三祠」の「弁」だという。かつて男坂には三十三の祠があったという。おそらくここには弁天社が祀られていたのだろうか。看板の後ろの岩がくぼんでいて祠のように見えなくもないが、如何せん詳細が不明であった。


しばらく行くと「愛」があった。ナンバリングは6から16へと飛んだ。愛宕社があったのだろうか。


広場のような場所に出てきた。ここは八大坊上屋敷跡で、阿夫利神社(石尊社)、大山寺の別当として大山の運営を行っていた。徳川家康主導のもと慶長10年(1605年)から大山の改革が始まり、大山一帯は八大坊を中心とした寺社組織となり、明治維新の神仏分離まで続いた。
江戸時代末期には八大坊の下に供僧11坊、脇坊6坊、承仕(候人)4坊、修験8坊、神家8坊(師職兼帯)、師職(御師、後の先導師)166軒があり、かなりの規模だったことがわかる。


すぐ近くに菊水紋が眩しい万国忠霊塔がある。世界のすべての国のその国のために忠節を尽くした勇士の霊を慰めるための塔とのこと。


階段を数段登れば「従是女坂道」の道標。ここで女坂と合流する。


そしてそこから数十段登れば大山阿夫利神社下社へ到着。天下泰平・国土安穏と書かれた銅鳥居をくぐる。


鳥居を潜って左手には「日本三大獅子山 大山獅子」のモニュメントが。かつて境内にあった獅子山が明治期の災害や関東大震災の山津波などにより流出しまっていた。平成24年(2012年)に皇太子殿下が大山登山されたことを記念して、これを復元したものである。


大山阿夫利神社下社の拝殿へ参拝。標高700mに位置する下社は、阿夫利神社の主たる社。明治初年の神仏分離によって、大山寺不動堂が廃止され、その寺地に阿夫利神社下社が置かれた。拝殿は関東大震災の被害を受けた際にも僅かな改修で乗り切っていたが、昭和52年(1977年)に再建が行われ現在に至る。
ケーブルカーでもここまでは簡単に来ることができるので、身軽な参拝者も多い。


拝殿の脇から下社地下巡拝道へ入ることができる。大山名水が汲めるのでここで喉を潤すことができる。その奥には6mを超える巨大な納太刀も展示されている。これを江戸から担いできたと考えると、その信心深さと体力が想像できない。


下社からの眺望は2015年のミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで二つ星を獲得している。薄っすらと見える相模湾や、夜景の美しさが評価されたという。大山自体も一つ星に認定されている。

ここから先、阿夫利神社上社を目指す。

2018/05/27

【歩き旅】大山街道 Day7 その④ ~大山参道の坂を上る~



三の鳥居をくぐって、ついに大山阿夫利神社参道へ。江戸火消しいろは48組のうち、京橋あたりを担当していた「せ組」が建てたことから「せ組の鳥居」とも呼ばれる。


このあたりは小字を新町といい、寛文6年(1666年)に発生した大洪水の被害のため、子易村との土地交換を元に作られた町である。
新玉橋で鈴川を渡ると小字別所町。このあたりから鈴川に沿って門前町が続いていく。


門前町には旅館が多数並ぶ。その旅館の敷地を囲うように名前が刻まれた玉垣が並んでいるのが少々異質かもしれない。
大山の旅館の多くはいわゆる「宿坊」であり、神職についた「先導師」が宿を経営し、参拝者をもてなしていることから「先導師旅館」と呼ばれる。


丹沢大山国定公園のゲートをくぐる。大山を含む丹沢一帯には、神奈川県最高峰の蛭ヶ岳(1,673m)やユーシン渓谷などの景勝地もあり、ハイキングや散策で訪れる人も多い。


加寿美橋を渡ると、阿夫利神社の社務所がある。かつては大山寺の別当である八大坊の下屋敷(下寺)があった。この道は旧参道と呼ばれ、多くの宿坊が立ち並んでいる。
その先には愛宕滝が水音を轟かせていた。参拝者のために作られた人工の滝ではあるが、かつては大山詣での禊で賑わった場所である。
大山には二重滝、八段の滝、元滝(不動滝)、良弁滝、愛宕滝、大滝の六滝があり禊の滝として利用されていた。


滝の脇には愛宕社・松尾社の祠がある。もともとは新滝と呼ばれていたのだが、近くに愛宕社があったことからいつしか愛宕滝と呼ばれるようになった。


大山豆腐を直販している夢心亭の入り口脇には「大山名水 一番 相頓寺の岩清水」の文字が。この先に茶湯寺があるが、これは昭和27年(1952年)に大山山内にあった相頓寺、西岸寺、西迎寺を合併してできた寺である。
喉を軽く潤して先へ進む。


遠州屋酒店の向かい、もとは宿坊であったであろう民家の前に不動明王の祠があった。石の状態を見るにだいぶ古そうではあるが詳細は不明である。


「蛇口之瀧」への入り口はこんな感じ。良弁僧正が入山の際、はじめて禊を行ったのがこの滝とされている。


滝の脇には開山堂がある。中には姥大日如来像、そして猿が金鷲童子(良弁の幼名)を抱く像が安置されている。良弁が近江国にいた幼少期、鷲が良弁をさらって東大寺二月堂の杉の木に懸けられているところを、義淵に助けられたことから僧になったという伝説があることに由来するようだ。


そしてこちらが蛇口の滝こと良弁滝。今でこそ水量は少ないが、江戸時代には大滝と二分する人気を持つ水垢離(禊)スポットであった。その様子は、葛飾北斎の諸国瀧廻りシリーズ「相州 大山ろうべんの瀧」や、歌川広重の関東名所図会「相州大山良弁之瀧」などの描かれており当時の大山詣の盛況ぶりが伺える。


気持ちだけ禊を行って、旧道の豆腐坂を上る。参拝者が豆腐をてのひらに乗せてすすりながら坂を上ったという。豆腐の水分含有量は90%近いので、水分補給にはもってこいだったのかもしれない。


豆腐坂を上りきればこま参道へ突入していよいよ大山登山!なのだが、ちょうど大山ケーブルバス停があるのでここで本日は終了とした。路傍の道祖神に一礼して帰宅。