気の向くままにつらつらと。

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2022/08/02

【歩き旅】北国街道 Day1 その②



街道に復帰し、お昼休憩後の飲み物はハッピードリンクショップで。「自動販売機のドライブイン」の二つ名を持つハッピードリンクショップの本拠地は山梨県だが、近隣の長野県でも勢力を拡大している。 


四ツ谷交差点で左斜めの旧道に入ると「乙女」という小字になる。このあたりは突き当りの角に南無阿弥陀仏と刻まれた碑がある。「左江戸海道 右甲州道」とある。


唐松交差点で国道141号に合流する。右斜め前方向に進むと、道の両脇に立派な唐松一里塚がある。


小諸市内で現存する唯一の一里塚であるが、かつて一つの塚だったものを二つに分割して現在の状態にあるようで、旧道は一本左側の道である。


烏頭坂と呼ばれる坂を上り、荒堀交差点に差し掛かる。ここに地蔵、馬頭観音碑とともに浅間山別当真楽寺の道標が置かれている。諏訪大社の御祭神は真楽寺の泉より湧き出たという伝承が残り、開山は用明天皇元年(586年)と伝わるまさに古刹。ここから6kmほど東の御代田町にある。


現在は暗渠化されている蛇窪川を渡り、ここから小諸宿が始まる。小諸宿内は北国街道沿いに与良町、荒町、本町、市町、大手町の区分けがあった。


宿場内は各家に屋号看板が設置されていて、かつて宿場町であったことを主張している。明治以降になっても小諸は商人の町として栄え、街道沿いは問屋などの商家が立ち並んでいて、いまでもその名残を感じさせられる旧家が点在している。


北国街道与良館という施設があった。江戸時代に漆器屋、明治以降は家具問屋を営んでいた旧松屋を改装してできた施設で、休憩所や案内所として無料開放されている。

与良館の裏手には、平成12年(2000年)に開館した小諸高浜虚子記念館がある。昭和19年(1944年)から昭和22年(1947年)まで高浜虚子が疎開していた当時の作品や資料を展示している。


街道は光岳寺の前で左に折れる。光岳寺の総門は小諸城の足柄門が移築されている。慶長元年(1596年)に、小諸城の二の丸と三の丸の間の土手を崩して道を造った際に設けられた門である。明治5年(1872年)に徳川家康の生母・於大の方(伝通院)の菩提寺である光岳寺に移築され、小諸城の数少ない遺構を見ることができる。


本町交差点を直進すると、右手に「大井伊賀守居城鍋蓋城址」と掲げられた石塀がある。この一角は長享元年(1486年)に大井光忠によって築城された鍋蓋城の跡地。江戸時代には小諸城代家老屋敷などとして利用されていたこともあり、町人地との境には木戸も設けられていたというが、現在は遺構などは残っていない。


旧脇本陣・粂屋の先には江戸時代後期建造とされる旧本陣問屋の上田家住宅がある。江戸時代に本陣と問屋を兼ねていた場所で、現存する問屋場建築は全国でも2例しかない(もう一例は中山道醒井宿にある)こともあり、主屋と表門が国指定重要文化財に指定されている。


日も落ちてきたので、入場時間ギリギリであったが小諸城址「懐古園」に立ち寄った。入り口は国指定重要文化財である「三の門」。寛保2年(1742年)に千曲川の氾濫「戌の満水」により宿場周辺の建物は流されてしまったため、現在の建物は明和2年(1765年)に再建されたものとなる。

城址は廃藩置県後の明治13年(1880年)に旧小諸藩士が取得し、大正15年(1926年)に公園として整備された。扁額は徳川宗家16代当主・徳川家達の揮毫によるもの。

本日は小諸で終了。実は宿泊地を決めていなかったので道中でホテルを探索していた。残念ながら小諸周辺で見つからなかったので、電車で移動できる駅近ホテルを探したところ、少し離れるが北中込駅近くに「佐久一萬里温泉ホテル」が確保できた。天然温泉に浸かって明日に備える。

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