【歩き旅】北国街道 Day2 その①
2日目は朝7時頃から活動を開始した。小諸駅に戻り、小諸本陣から街道歩きを再開する。しなの鉄道の線路をアンダーパスし、ぐんぐん標高を下げていく。中沢川を渡った先、中沢川が刻む谷の手前に寛政2年(1790年)銘の観音像が置かれている。このあたりは新町にあたる。右手に見えてきた石碑は俳人・臼田亞浪生誕の地碑である。明治12年(1879年)に小諸で生まれ、和仏法律学校(現在の法政大学)在学中に与謝野鉄幹や高浜虚子に学んだ。新聞社で務めた後、俳誌『石楠』を創刊し、多くの門人を輩出した。街道が右カーブするところに青木諏訪神社がある。かつては東山道沿いにあったというが、元文6年(1741年)頃に現在地に移転した。栃木川を渡るとY字路に巨大な碑が置かれていた。「布引山観世音」と刻まれている通り、ここを左に進めば布引観音こと布引山釈尊寺へたどり着く。釈尊寺の聖観音菩薩が牛に姿を変えて、強欲な老婆を善光寺へ引っ張っていき改心させたという逸話が「牛に引かれて善光寺参り」ということわざになったとされている。北国街道はここを左折せず直進する。ところどころこのような北国街道案内標識が設置されているので助けになる。
花川を越える手前には馬頭観音像と思われるものが2基鎮座している。少し進むと北国街道の案内板があるのでそれに従って旧道に入る。ガードを潜るとその先に開けた場所があり、「青木一里塚跡」と辛うじて読める標識が立っている。(その後この標識は改修されたようだ。)しなの鉄道の「第一北国街道踏切」を渡り、緩やかなに登りながら芦原中学校入口で国道18号をクロスする。しばらくすると千曲川の対岸の山並みを眺められる場所に出てくる。ここにある石碑は「菱野薬師堂」と刻まれているという。小諸市北部に位置する菱野薬師への道標であろう。菱野は鎌倉時代に薬師如来のお告げを受けて温泉が発見され、以来湯治場としても有名になった地である。
深沢バス停手前で再び国道18号に合流する。深沢川を越えた右手に「たかこの布あそび」という商店らしき建物がある。層状になった瓦屋根が眼を見張る造りとなっている。ガソリンスタンド脇を左の旧道に入り、芝生田集落を突っ切る。炭平コーポレーション小諸支店前に石碑がある。奥にある石仏には天保12年(1841年)の銘が入っている。
平沢川を渡ると小諸市から東御市に入る。さらに大石沢川を渡る。橋の下に明治時代に作成された眼鏡橋があるというが草に覆われて見えない。橋を渡ると右手に石碑群がある。注連縄がかけられた双体道祖神は剣を持っているデザイン。「刀匠山浦真雄宅跡」の看板が立てられているが、ここから街道を外れて南に進んだ先に山浦真雄(本名:山浦昇)宅跡がある。
文化元年(1804年)に小諸藩赤岩村の名主の元に生まれ、天保10年(1839年)に小諸藩の藩工、嘉永元年(1848年)には上田城下での刀工、嘉永6年(1853年)には松代藩の藩工として作品を多く残している。弟の清麿、子の兼虎と共に信州の刀剣界を代表する人物である。
滋野郵便局の先、牧家(ぼくや)の集落に差し掛かるところに牧家一里塚跡の碑がある。往時は脇に茶屋があったようだ。周囲の石は一里塚の石積みとして使われていたものらしい。
牧家橋で西沢川を渡り、県道との交差点に新旧2基の力士雷電の碑がある。大関・雷電爲右エ門は大石村(現・東御市大石)出身の力士で、寛政2年(1790年)から文化8年(1811年)まで、通算白星254に対して黒星10、勝率9割6分2厘という大相撲最強の成績を残した人物である。文久元年(1861年)に佐久間象山の筆により顕彰碑が建立されたものが手前の碑で、元々は先程の一里塚の場所にあったようだ。勝負事に縁起が良いとして碑の一部を持ち帰る者が後を絶たず、次第に碑文が読めなくなってしまったため、明治28年(1895年)に新しく新設された碑が後方にある。
この交差点を北に進むと移転された雷電生家があり、見学できるようになっている。時系列的にはこの後になるが、2017年に水戸佐倉道・成田街道を歩いた際に雷電の妻の地元・佐倉にて雷電の顕彰碑があった。
雷電以降、久しく長野県出身の大関は輩出されていなかったが、令和4年(2022年)に227年ぶりに木曽郡上松町出身の御嶽海が大関昇進を果たした。
立派な松の袂に「明治天皇牧家御小休所」の碑があった。明治11年(1878年)の明治天皇北陸東海御巡幸の際、ここで15分程休憩したという。牧家は小さい集落ながら間の宿として機能していたようだ。
加沢集落に差し掛かる。加沢からは鹿曲川に沿って南下して中山道望月宿に至る「望月街道」が延びている。加沢橋で所沢川を越え、緩やかに下りつつ常田南交差点で県道をクロスすると、この辺りから田中宿が始まっていたようだ。
高木屋には「田中宿脇本陣跡」の札が掲げられていた。次の路地を右に曲がったところにある民家に本陣門(薬医門)が残っているようだが、スルーしてしまった。
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