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2022/08/04

【歩き旅】北国街道 Day2 その②



北国街道が整備された当時、田中宿と次の海野宿は2宿で1つの宿駅としての役割をもつ「合宿」であった。しかし、寛保2年(1742年)の台風によって田中宿は土石流の被害を大々的に受け、宿駅業務の多くは海野宿で実施されるようになった。

明治以降には再び近隣行政の中心地として発展し、現在でも東御市役所が宿場の北側にある。近年には電柱の地中化や道路の拡幅が行われ、開放的な町並みとなった。


田中集会場前に筆塚がある。隣の看板には平成16年(2004年)に、北佐久郡北御牧村と合併して東御市になったため消失した「東部町」の文字が残る。


求女川(もとめがわ)を求女橋で渡る。橋には「求女澤」とも書いてある。その先、田中小学校の向かいにある中澤自動車商会の前に、馬頭観音と供養塔がある。


ここから脇道に入ると、海野宿までは線路沿いに整備された遊歩道がある。本来の旧道は脇道に入らないルートとなるので、旧道を辿りたい方は案内板に惑わされないように注意が必要。私はまんまと案内の通りに進み、旧道を外れてしまった。


三分川、金原川を越え、しなの鉄道の第2北国街道踏切を渡れば、海野宿の入口となる。


万貫石という巨石も同じ敷地にある。由緒はよくわからなかった。


海野宿の東端には白鳥神社がある。創立年次は不明だが、建久2年(1191年)に地元の豪族・海野氏が社殿を今の位置に移したと伝わる。本殿は寛政3年(1791年)、拝殿は明治15年(1882年)に作られたもの。


白鳥神社の境内に「木曽義仲挙兵の地」の説明板があった。治承5年(1181年)に高倉宮以仁王が発した平家討伐の令旨に応じた木曽義仲は、白鳥神社前の千曲川河川敷・白鳥河原で挙兵したという(白鳥河原の勢揃)。その後、長野・横田河原、越中・倶利伽羅峠で平家の大軍を倒し、京都に上洛。寿永3年(1184年)に征夷大将軍に任ぜられることとなる。


昭和61年(1986年)には、日本の道100選No.37として「北国街道 歴史かおる街・海野宿」が選定されている。


海野宿の成立は寛永2年(1625年)と伝わる。元々は間の宿であったが、問屋が置かれて田中宿と半月交代で伝馬業務のみを行っていた。この場所は豪族・海野氏の本拠地であり、海野氏の居館が宿の北側にあり、戦国時代には六斎市も開かれていたため、古くから城下町として発展していたと考えられている。
昭和62年(1987年)には「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、江戸時代の旅籠屋造り、茅葺き家屋、蚕室造りの建物などが残る。


地蔵寺は上田市の願行寺の末寺で、本尊は媒(なかだち)地蔵菩薩。昭和27年に消失し、廃寺となった。当時のものは門前に並ぶ百万遍供養塔、馬頭観音碑、庚申塔などの石碑群と、門と井戸くらいだという。現在祀られている媒地蔵尊は平成9年に再建されたもの。


本陣跡の碑があった。かつては本陣と問屋を兼業していた場所で、宿場開設当初は20間もの間口があった。遺構として残る長屋門はその一部で、問屋場として使われていた部分と考えられている。

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