【歩き旅】北国街道 Day3 その④
屋代信号で国道18号に合流する。「市道升の浦線」の案内に沿って側道に入り、用水路沿いの道を進む。北陸新幹線の線路を頭上に見ながら、長野自動車道更埴ICのトンネルを抜ける。土手に突き当たるがかつてはこの道の延長線上を屋代の渡しで千曲川の対岸に渡っていた。ここからかなり東に迂回していき、篠ノ井橋で迂回して千曲川を渡る。
篠ノ井橋は明治5年(1872年)に12艘の船を並べて作られた舟橋を起源とし、明治22年(1889年)に木橋が架橋された。現在の橋は昭和47年(1972年)に架替えられた橋を平成6年(1994年)に道路拡幅工事に伴い拡張したもの。
千曲川を渡ると遂に長野市へと突入する。
土手を西へと向かい、対岸の渡しの発着場付近へと向かう。
矢代の渡しの対岸に位置するところに軻良根古(からねこ)神社がある。「軻良根古」は田畑を荒らす大鼠を退治する「唐猫」に由来するという。ここに矢代の渡し跡の説明板がある。天保14年(1843年)にはここに渡し船があった記録が残っている。
その先に「明治時代の更級郡制の中心地」の案内板があった。北国街道上のこの場所に郡役所を中心とした更級郡の関連役所が集まっていた。更級(さらしな)という地名は古く、奈良時代の木簡にもその地名が記されていた。しかし、平成17年(2005年)に大岡村が長野市に編入されて更級郡は消滅したため、実は地名としての「更級」は現存していない。
道は丁字路に突き当たる。ここに篠ノ井追分宿跡の碑がある。突き当りを左に向かう道が善光寺西街道(北国西街道)で、稲荷山宿、桑原宿、麻績宿、青柳宿、会田宿、刈谷原宿、岡田宿、松本宿、村井宿、郷原宿を経て中山道・洗馬宿へと向かう。篠ノ井追分宿はあくまで間の宿であったが、北国街道と善光寺西街道の追分ということと、千曲川の舟運の集積地として発展し、無許可で宿泊業を経営する者も多かったという。
北国街道は突き当りを右に進む。岡田川に架かる見六(みろく)橋で再び街道は北方向へと90度進行方向を変えるが、この橋の袂に道標がある。嘉永2年(1849年)の道標で「せんく王うし道」と刻まれているもので、平成の見六橋の架替え工事で川の中から発見されたものだという。
駅前通り手前の一角に「やすらぎ通り」と名のついたスナック街があった。奥の方には年季が入ったお店の看板が立ち並んでいる。
篠ノ井駅の様子を観察する。JR信越本線・篠ノ井線、しなの鉄道しなの鉄道線が乗り入れている駅だが、この日はあまり人出があるような感じではなかった。
驥山館(きざんかん)への側道入り口のところに秋葉神社と天神社がならんで覆殿に祀られていた。向かって左にあるのは蠶(蚕の俗字)碑だろうか。
芝沢交差点手前に万延元年(1860年)建立の庚申塔がある。裏面に「布施高田村」とあるが、このあたりは大正に入って篠ノ井町になるまで布施高田村であった地域である。
左手に蓮香寺の楼門が見える。貞治6年(1367年)に川中島原で創建され、慶長元年(1596年)に現在地に移転してきた。平成10年(1998年)の長野オリンピックでは、ドイツチームのゲストハウスとして利用された。
写真では見えづらいが、日の屋の横・大久保家の門前に「明治天皇原御膳水碑」がある。このあたりはかつての原村にあたり、間の宿として機能していた。
親鸞聖人御舊跡(御旧跡)と刻まれた碑がある。ここを左に曲がれば親鸞に縁のある唯念寺にたどり着く。唯念寺は嘉元三年(1305年)に親鸞の弟子・和田新四郎義包(よしかね)によって創建された。義包は和田義盛(鎌倉幕府の侍所別当)の嫡男・新左衛門尉常盛の四男にあたる人物。
JR川中島駅に到着。少し早めだが疲れてしまったので本日はここで終了。
川中島といえば武田信玄と上杉謙信との戦いである「川中島の戦い」が想起されるが、古戦場は街道から少し離れたところにあるということで、今回は立ち寄るのを断念した。
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